名前 シルヴィー . /私の遺言/夢の小鳥/愛のきずな/ある夜二人は/太陽のパラダイス/私はキッド/男の子のように(英語)/ベイビー・カポネ, 想い出のマリッツァ/もうちょっとだけ/太陽をかくした/きれいな人形/あなたのとりこ/男は必要なもの/太陽に向かって/二隻の船/彼は帰ってくる/沈黙/金の葉, 恋人時代(日本語)/たくさんの愛とすこしの忍耐/わたしの小さな影/女の時間(日本語)/狼/あなたの名前/愛のフーガ/他, La Moitie Du Chemin (※日本盤は「哀しみのシンフォニー」に差替)/スーザン/愛に生きるわたし/メディシン・マン/伐り倒された木のように/一握りのお金/君の友だち/カリフォルニア/アナベル/あなたのことを教えて/ディリンダム/いつか会う日まで, ジーグフェルド・フォリーズ/ドゥリドゥリダム/ふたりの小さな娘たち/絵の具の色/ローレルとハーディ/インディアナ/ベビー・カポネ/バブル・バブル/兵士たち/パリ・シルヴィー/スワニーのために, サバの女王/恋はみずいろ/愛の讃歌/枯葉/別れの朝/風のささやき/愛の休日/ロックン・ロール・マン/行かないで/バン・バン/ダドゥ・ロン・ロン/ケ・サラ, 愛のひとりごと/愛の小舟/神様の贈り物/私の楽園/あなたの瞳に/幸せ/スウィング・タイム/あなたがいれば/素敵な恋人/スーベニール(思い出)/あなたとの明日, アメリカン・ナイト/プリーズ・ステイ/イージーラブ/はるかな渚/愛のやすらぎ/ピュアー・ラブ/くよくよしないで/キープ・オン・ロッキン/踊ろう、恋のリズム/ホット・タイム・トゥナイト プロデューサー=デニー・ディアンテ (全曲英語), セ・ファタル/それは当然…/ロンドンに雨が降る/美男のカメラマン/ヴィヴァ/ボルドー〜サンフランシスコ/待っていた人/穏やかなブルー/時を追いかけて/セ・ファタル (マキシ・ヴァージョン), 悲しき慕情/おセンチな17才/スループ・ジョンB. (Paris録音) Le petit cheval / Qu'est-ce qui fait pleurer les blondes ? 日本盤ボーナス・トラック: アイドルを探せ(アコースティック), 午前5時、パリは目覚める/ヌーヴェル・ヴァーグ/愛の時間/ルビー・チューズデイ/スザンヌ/涙のシャンソン日記/風に吹かれて/ドリーム・ア・リトル・ドリーム・オブ・ミー(夢の中の愛)/ヤー・ヤー・ツイスト/リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア/ドライヴ・マイ・カー/アイ・キャン・オンリー・ギヴ・ユー・エヴリシング/アイム・ア・ビリーバー/ゼン・ヒー・キスド・ミー/スーヴニール・スーヴニール 日本盤ボーナス・トラック: スタンド・バイ・ミー, 私はブルースを歌う/サガンのペンで/時には愛で抱かれたい/囚われなく生きよう/そんな気がする/悲しみは全部まざって/火はやがて灰に/恋の手紙/ひとりが出てゆく時/これが私/メランコリー/女歌手は20才 名前 :シルヴィー 本名 :不明 誕生日:1984年6月22日 年齢 :34歳(2018年8月現在) 日本公演を4月16日から19日に東京と大阪[22]で開催し、公演初日に新譜「シルヴィ・イン・ナッシュビル」[23]が日本発売される。日本公演の後、ソフィア公演[24]へ直行。1990年、2009年に続いて3回目の国立文化センターでの公演となる。広告も壮大で巨大な広告塔が街頭を飾り又ビルの外壁一面を覆う広告まで設置された。国を挙げての歓迎ぶりで大統領や文化大臣も来場。今回の訪問では、「Sylvie Vartan pour la Bulgarie/シルヴィ・ヴァルタン・ブルガリア人道支援団体」の現地病院への貢献活動(5万ユーロ相当の新生児医療機器を贈呈)[25] に対しシルヴィ・ヴァルタンにソフィア名誉市民の称号が授与[26]される。またブルガリア国営ラジオにて記者会見そして現地刊行されたばかりの2012年フランス刊行の自叙伝[27]の翻訳版のサイン会など公演前後のイベントもあり過密日程をこなす。6月から7月は新譜メインのパリ公演プログラムで昨年に続いてフランス国内サマー・ツアーに出る。猛暑の野外公演に5千人から1万人が集った。8月15日に70歳を迎えた。同日付Le Figaro紙[28]は: 「年月の流れを感じさせない人たちがいるものだ、シルヴィ・ヴァルタンはそれに属する」。 2019年10月パリ公演(Grand Rex劇場)は、フランスの国民的ロック歌手ジョニー・アリディ(1943-2017)へのオマージュ公演で、プログラムの7割がアリディのレパートリーから。, 2021年4月、パリで新しい形の公演 "SYLVIE, LE RECITAL" (Théâtre Edouard VII 劇場)をする。, 日本の音楽シーンにおいては、100万枚以上を売上げた「アイドルを探せ」、「悲しみの兵士」、「あなたのとりこ」、「哀しみのシンフォニー 」、「想い出のマリッツァ」、「愛の経験」、「アブラカダブラ」、「愛のかたち」、「ディスコ・クイーン」、「初恋のニコラ」等、1965年から1970年代に多くのヒットを放った。1965年5月、20歳の時に初来日。1970年代は北海道から沖縄まで過密日程にて3、4週間に亘る全国ツアーを行った。この時期、RCAは横断幕を持って羽田空港で出迎えた。70年代の長期全国公演ツアーの黄金期を経て現在までコンスタントに来日公演を開催している。, 公演やイヴェントのため2018年迄に20回以上来日している。初来日の1965年から1980年代前半迄は来日中に人気音楽番組にゲスト出演し歌った。, 1965年5月、20歳の時に初来日した機会に制作された婦人服製造卸・レナウンの「ワンサカ娘」のTVCMで、1万ドル(当時のレートで360万円)のギャラで歌った[35]。CMソングとしてヒットした。「ドライブウエイ、プールサイド、テニスコート、ロープウエイ」などの英語の歌詞で「イエイエ」が連呼されたこの歌は、1961年に小林亜星が作曲した。シルヴィの他に複数の日本人歌手が歌い、「1965年から1966年がシルヴィ・ヴァルタンだった」「6年間も歌い継がれ、この頃が絶頂だった」と評された[36]。, 原題:Irrésistiblement 戸田恵梨香さんと成田凌さんと言えば、2017年夏ドラマ『コード・ブルー -ドクター ... Copyright© 星に願いを , 2020 AllRights Reserved Powered by AFFINGER4. 本業の方は、2017年9月オランピア劇場公演(オランピア劇場初公演50周年を記念し、半世紀のキャリアを2部構成でスクリーン映像と共に動的な音楽で辿った)。 2015年は2月から2013年に続いてナッシュヴィルでアルバム制作に入る。[29][30] 4月にパリ・オランピア劇場公演。2013年発表のナッシュヴィル録音アルバムを中心に、自身の往年の名曲やファン達が熱望してきた1977年アルバム収録曲(初披露)やナッシュヴィルで制作中の新譜収録予定の真新しいロック・ナンバーまで、安定したパワフルな歌声とリズムで音楽のジャンルを超えたアーティストであることを改めて強く印象に残した公演。翌日の仏紙 LE FIGARO が報じた通り "幕間なし" で約30曲をエネルギッシュに演じた。国営TV局F2もその公演模様をリポートした。9月から4ヶ月間パリの劇場[31]にて演劇[32]初主演。コメディ作品で定評のあるイザベル・メルゴー(映画監督・脚本家・女優)との共演でチケット・セールスの上位を占める。11月にステージ・キャリア半世紀を超えるシルヴィ・ヴァルタンを彼女のモードで辿る写真集 「Le Style Vartan」刊行、また 新作アルバム 「Une Vie en Musique」 発表。本作は7月に録音したレパートリーの再録で、シルヴィに由縁のある街、ソフィア、パリ、ロサンゼルスに因んだ全16曲を収録。同時期、1961年から1986年RCA時代シングル盤レプリカ復刻CD全集(コレクション・ボックス)が発売される。多方面で大活躍の年となる。, 2016年4月、約一世紀を生きた敬愛する母親(2007年逝去)の回想本を刊行。秋から2017年春まで2015年に好評だった主演コメディ演劇のフランス国内巡演。 ちなみに、パチンコをする人はパチスロをすることも多い中、シルヴィーさんはパチンコ一筋! パチンコライターシルヴィーのwiki的プロフィール紹介!本名や年齢は? それではまずシルヴィーさんについて簡単にご紹介していきたいと思います。 引用:twitter.com. 太陽の中の恋 モノラル/そよ風のブロンド/プリーチャーマン/恋のハプニング/モン・ペール/あなたのとりこ/あなただけを/私に似ている誰か/ロックン・ロール日和/愛すること/アイドルを探せ/男は必要なもの/男の子のように/パルティール, 夏に雪/大変なこと/アルゼンチン・タンゴ/あんなに愛し合ったのに/理由(わけ)を教えて/私に空を広げてみせて/もう昔と違う/冗談じゃない/心のリズムに合わせて/焔(ほのお)/あなたは私の胸の中にいて/エマの瞳/訣別の時/あなたのとりこ(新録音) シルヴィ・ヴァルタン(Sylvie Vartan, 1944年8月15日 - )はフランスの歌手で、ライヴ・ステージが定評のエンターテイナー。音楽レパートリーはロックの他にジャズやバラードまで幅広い。ブルガリア生まれで8歳からフランス・パリ育ち。1961年リセ在学中の17歳でパリ・オランピア劇場に初出演。アメリカ音楽が台頭し始める中、ロック歌手としてデビュー。一方で、1964年「La plus belle pour aller danser」(邦題「アイドルを探せ」)が世界中で大ヒットした。以来、70年・80年代の1~2ヶ月に亘るパリ公演ロングランと国内外での長期公演ツアー黄金期を経て、ブランクなしに第一線で活動。定期的に新譜発表や国内外で公演をする。2021 (* Music written by David Hallyday, singer songwriter), ※注:フランス盤と日本盤では 収録曲目が異なる場合があります。日本盤は発売時期も遅れています。, 収録:1975/10/4〜11/4,1976/2/20〜2/29 パレ・デ・コングレ・ド・パリ, 収録:1977/10/7〜11/9,1978/3/20〜4/2 パレ・デ・コングレ・ド・パリ, 収録:1990/10/6 Palais de la Culture de Sofia (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 年齢は非公開となっているシルヴィーさんですが、30歳のパチンコライター仲間から「シルヴィー姐さん」と呼ばれていることから、それなりの年齢であろうことが窺えます。, 唯一、シルヴィーさん自身のブログのプロフィールにて、“未婚”とありますので「実は既婚者だった」ということはないようです。, シルヴィーさんはパチンコライターの中でも、パチンコそのものを楽しんだり、アイドル的な役目を担って宣伝活動をするタイプではなく、ただ勝つことを目的としてパチンコをしている実践派タイプのようです。. 生年月日&本名:非公開 所属雑誌:パチンコ攻略マガジン 趣味:バンド. / 結構よ / カム・ア・リトル・クローサー 1998年の「Irrésistiblement SYLVIE」 は高視聴率を獲得してCD化され日本でも発売された。, フランス語の他、英語、イタリア語、スペイン語、ブルガリア語と5カ国語に堪能。日本語を勉強していた時期もあるという, 1965年から1970年まで「Création Sylvie Vartan」と称したプレタポルテ・コレクションを発表。『ELLE』誌の表紙を飾り毎回紹介される。ヴィクトル・ユーゴ通り (Avenue Victor-Hugo) にパリ第1号ブティックを開き、フランスに他3店舗とベルギーにも出店。(2015年11月フランスで出版(MARTINIERE BL)されたモード写真集「LE STYLE VARTAN」にパリのブティックの写真が掲載されている。) 本コレクションに加え、シルヴィは特に1960年から1970年代、長い手足・華奢なシルエットが注目され、『ELLE』や『Vogue』誌上において、YSLなどクチュリエ製作のオートクチュール(ジャンプ・スーツからミニやドレスまで、様々なファッション)に身を包み、ヘルムート・ニュートンなどの撮影に応じた。, 日本では、1965年5月(20歳)の初来日時の写真の一つに「西武シルヴィ・・・協賛東洋レーヨン」のボードをバックに記者会見をするシルヴィの姿があるが、西武百貨店にシルヴィのモード・コーナーがオープンするほどの人気ぶりが伺える。, 2004年10月16日から2005年2月27日迄4ヶ月間、ガリエラ美術館(パリ市モード博物館)にて「Sylvie Vartan, revue de mode(シルヴィ・ヴァルタン モードの遍歴)」展が開催された。そうした経歴から、インタビューでモードについて質問を受けるが、「(キャリア上)自分のスタイルを作り上げるといったことに構ったことはない」、「もちろん関心はあるが、私はファッションの奴隷ではない。いつも自分の好きなものを身につける」と答えている。, 1980年代にフランスでダンス・スクールを開いていた。1984年4月、東京銀座に百貨店プランタンが進出した際に、最上階に同名のダンス・スタジオをオープン。フランスのスタジオ閉鎖と共に東京校も閉鎖。シルヴィ・ヴァルタンは1970年からアメリカにも暮らし始めるが、以来2004年迄のショウ振り付け師は全てアメリカ人を起用した。1970年代は振り付け師と共にラスベガスなどでほとんどのショウを見たという。, シルヴィが自分の分身といい両手を広げて信頼する夫。1981年3月に第10回東京音楽祭の席で出会い3年後の1984年6月にロサンゼルスで再婚。トニー・スコッティは東京音楽祭の審査員として常連で1980年から1986年まで務め、シルヴィは1981年と1983年から1986年まで審査員やプレゼンターとして招待されている。トニーはアメリカ東海岸ニュー・ジャージー州出身。大学卒業後、西海岸ロサンゼルスに移り俳優・歌手としてスタートするが、間もなく兄弟3人で会社設立、音楽・映画プロデューサーとして成功している。シルヴィはTVや雑誌インタヴューでトニーについて訊かれる毎に笑顔でこう表現する「トニーのような男性に出会うのは難しい、彼は突然私の目の前に現れ大きな扉から入ってきた『un oiseau rare(珍鳥)』、私はもう戸に鍵を閉めてしまいました!」, 1965年、医学生だったジャン・リュック・アズレはシルヴィの熱狂的ファンとなりファン・クラブを作って初代代表となる。1968年にシルヴィの秘書兼マネジャーのカルロスがシルヴィと一緒に歌い始めてタレントになると大学を中途退学してその役目を引き継ぐ。シルヴィのアメリカ暮らしが益々頻繁になる1976年迄シルヴィに従って日本を含め世界中を巡演した。後にプロダクションを設立、現在はフランス最大オーディオ・ヴィジュアル企業の一つで多数の関連会社を持つ。2004年に初めてシルヴィ・ヴァルタンのショウをプロデュースし2005年の日本公演にも同行。アズレは、シルヴィの下でショウ・ビジネスについて学んだと話している。, 1967年から7年間シルヴィの音楽制作主要ブレーンの一人ジャン・ルナール。2011年シルヴィのステージ・キャリア50周年記念パリ公演に姿を見せた。1967年知人から人気歌手に曲を提供する事を薦められ当初ジョニー・アリディへの曲を持ってジョニーも来るはずだった新譜録音中のシルヴィがいるスタジオを夜訪れる。シルヴはジョニーは来られないため替って自分が聴いて彼に話しても良いと言う。ルナールはピアノに向かったが自分で歌い出す、終わって見るとシルヴィは白い顔をして泣いていた。再演を促されるが途中シルヴィは「この曲は私の方に向いている!」と言い出して遮る。その翌日にシルヴィの音楽ディレクターの仕事を提示される。[41] 83年パレ・デ・コングレでの「11週間ノンストップ・ロングラン公演」の6-9週間後には同ホールはもう充分だという気持になる。86年アルバム「Virage」を最後にRCAから移籍するが同公演もRCA時代最後のパレ・デ・コングレ公演となる。2年毎の費用も膨大なパリ公演のため前々から計画し全て騒々しいリズムで送る生活にうんざり気味になり始めていたシルヴィは、家族生活に優先を置き直しこれまでと違う静かな暮らしを望むようになる。この記録的パリ・ロングランと翌84年の一万人の大観衆がひしめいた野外公演を含む熱狂の国内サマーツアーを後にフランスでの公演活動は6年間、1990年迄休止する。84年6月に再婚し又、一人息子ダヴィドが18歳になり私生活上大事な時期でもあった。新譜録音は行っているがそのような大観客の目の前から遠のく事はキャリア上の大きな決断となる。実際、アメリカ人と再婚しアメリカ西海岸でも生活するようになった事もあり、フランスの一般大衆は「シルヴィ・ヴァルタンはアメリカに移住した」との印象を持つ。, 1979年にアメリカ進出を狙ったアメリカ的ワイルドな出で立ちのジャケットが際立つ全曲英語アルバム「I don't want the night to end(アメリカン・ナイト)」、1985年に「Made in USA」を発売。2作共、公式サイトのファン投票では其々の年代で「Sympathie」や「Confidances」と共に一番人気の、代表的アルバム。, 1970年から1984年は大掛かりなスペクタクルで正にステージ活動、フランス全土と世界長期ツアーの黄金期。音楽だけではなく、ボブ・マッキーからイヴ・サンローラン、クリスチャン・ディオール、シャネル(ラガーフェルド)等、アメリカ・フランスのクチュリエによるオートクチュール衣裳も注目を浴びた。2004年10月から翌2005年2月迄、ガリエラ美術館 (Musée Galliera) が、「Sylvie Vartan, revue de mode(シルヴィ・ヴァルタンとモード展)」を開催。« revue de mode »の « revue »は、雑誌とスペクタクル公演 « magazine et spectacle » の2つの意味を持ち、展覧会は両方の側面から構成される[9]。, 1989年10月、数年のステージ・ブランクを経て、アルバム「Confidanses(バルタン気質)」を発表しステージ活動再開を告知。モノクロ・ジャケットに見る通り外見や装いも70年代半ばから83年迄のスペクタクル時代のゴージャスさや85年アルバム「Made in USA」発売時のアメリカ的ワイルドさからもすっかり抜け出し、全体的にシンプルでスポーティーな一面が顕著になる。長いストレート・ヘアーにナチュラル・メーク、フラット・シューズやテニスシューズを履き、カジュアル・エレガンスが際立つ装いが見られた。, 1984年6月に再婚しその後ステージ活動を一時休止するが、1989年東欧の社会主義体制が崩壊した翌年1990年ブルガリア・ソフィア初公演を契機に活動を再開し数年毎にパリ公演・国内外ツアーを行う。, 1990年にエティエンヌ・ダオーのアレンジで再録した「Quand tu es là(ゲーム・オブ・ラブ)」がヒット。10月6日にソフィア初公演、1989年10月の新譜「Confidanses(バルタン気質)」から「C'est fatal(セ・ファタル)」「Il pleut sur London(ロンドンに雨が降る)」などの新曲に加え「Mon Père(モン・ペール / 私の父)」、ジョン・レノンの「イマジン」、ブルガリア・フォルクロールも含めたプログラムで観客4000人の前で歌う。またフランス文化を愛した祖父が幼少のシルヴィへよく歌ったシャルル・トレネの「Le soleil a rendez-vous avec la lune(太陽と月)」をエピソードと共に披露[10]。同年12月フランスTVで放映され、またCDライヴ「Enregistrement public à Sofia」発売。また、兄エディとブルガリア赤十字社の下に人道支援団体「Sylvie Vartan pour la Bulgarie」を設立。, 1991年1月22日から、湾岸戦争が勃発しパリ市街も不穏な中、パレ・デ・スポールにて3週間に亘って公演し久しぶりにファンの前に戻る。アメリカ人ジェリー・エヴァンス (Jerry Evans) の瑞々しい振り付けやリズミカルな曲目が光るポップ・ロック公演。オープニングの「Par amour, pour pitié(愛と同情と)」、「Dancing in the streets」、子供達が成長しかつての自分達のように飛び立って行くその心境を歌う未編集の新作 「Les enfans s'en vont(子供達は去って行く)」などを披露。1989年には一人息子ダヴィドが22歳で結婚し独立している。1992年6月に2週間の日本ツアー、アルバム「Confidanses(邦題:バルタン気質)」収録の新曲に加えア・カペラでブルガリア・フォルクロール「Moya Goro」を歌った。, 同年1992年12月には夏にロサンゼルス録音の新譜アルバム「Vent d'Ouest(英訳:Wind from West)」発表。Michel Compte撮影のダンサー風シルエットのシルヴィのセピア色写真が新しくブックレットも含めてストーリーを持った作品。1993年夏、ア・カペラのカバー曲「Tes tendres années(テンダー・イヤーズ)」のヒットにより、長年一緒に仕事をしたベテランのミュージシャンやコーラスとの同時録音アコースティック・アルバム「Sessions acoustiques」を一気に製作。, 1995年1月、新譜「Sessions acoustiques」をテーマにカジノ・ド・パリ (Casino de Paris) 初公演。収録曲に加えヌガロの「Le Cinéma」、フェレ「La vie d'artiste(アーティストの生涯)」、ブレル「La chanson des vieux amants(懐かしき恋人の唄)」などのクラシック・シャンソン、本公演限定のダイナミックな新曲「Je ne peux pas te quitter (comme ça)(こんな風に別れられない)」、また「Divertissement sur Cyrano(シラノのスケッチ)」 などテアトラルな側面も見せた新しいアコースティック・コンサート。, 1996年、ファン達には長年のトレード・マークの一つだったロングヘアーからショートヘアーの軽快なスタイルに変え、アメリカとフランス両大陸に住むシルヴィのライフ・スタイルを映した「Back to LA」「Je n'aime encore que toi(あなただけを)」収録のヒット・アルバム「Toutes les femmes ont un secret(全ての女性は秘密を持っている)」を持ってオランピア劇場公演。1997年7月に特別な新作CD「Sylvie Vartan chante pour les enfants(シルヴィ・ヴァルタン子供達に歌う)」を発売、フランスの伝統的な童謡やフォルクロールにシルヴィとエディが其々作曲した新作2曲を収録した絵本の様な装丁のアルバム。翌1998年、シルヴィはブルガリアから女の子を養女に迎えることになるが子供に対する愛情に溢れる。, 1999年に娘ダリナへのオマージュ「Darina」や息子ダヴィド作曲のハードなロック 「Ma vérité」、兄エディの「Les robes」を含む「Sensible」を発表して再びオランピア劇場に戻る。この1999年公演「Tour de siècle」は第1部をほとんど1950年代の古き良きパリに捧げたクラシック・シャンソン・メドレーという特殊な構成をとった。後の2011年7月ニューヨーク初公演の際のインタヴューの中でシルヴィはこの様に語っている:「フランスの歌のレパートリーに傾いたり、母が聞いていた歌へ(1999年の)パリ・オランピア劇場公演でオマージュを捧げたいと思ったのは、やっと2000年になる寸前の事です。16歳の頃はジャズやロックに夢中でした。両親は典型的なフランスの歌(クラシック・シャンソン)を聞いていました、シャルル・アズナヴールやレオ・フェレやジベール・ベコーです。私は遅くなってからこの素晴らしい歌の財産を発見しました。」[11], 2001年6月に重要なブレーンで最愛の兄エディ・ヴァルタンを見送った後メディアから遠ざかるが、2004年春に新譜「SYLVIE」を発表[12]。主にイタリアのミュージシャン達(ショウにも出演)による作品を携えて全盛期のパレ・デ・コングレにて9月28日から10月10日まで2週間のスペクタクルを開催。若いダンサーを引き連れて歌い踊り本来のエレガンス・ダイナミズムを取り戻す。ほぼ同時期、パリ市モード博物館(ガリエラ美術館)にて4ヶ月間の衣裳展「Sylvie Vartan, revue de mode(シルヴィ・ヴァルタンとモード展)」が開催される。合わせてELLE誌10月25日号の表紙に登場。また4月発売された自叙伝『Entre l'ombre et la lumière』(影と光の間で)がエッセー部門1位にランクされベストセラーとなる。, 2007年春、1960年代の欧米のスタンダード曲を収録した新譜「Nouvelle Vague(ヌーヴェルヴァーグ)」を制作。「Il est 5 heures, Paris s'éveille(午前5時、パリは目覚める)」からボブ・ディランの「風に吹かれて」(フランス語ヴァージョン)、ビートルズの「Drive my car」そして「スヴニール・スヴニール(Souvenir, souvenir)」、「Stand by me」(イタリア語 / 日本盤ボーナス)まで、シルヴィがパリに移住した日の少女時代を象徴するような歌からアメリカン・ロックに夢中のリセ時代・思春期に聞いた歌などが収録されている。シルヴィは2004年刊行の自伝本で「私は悲しみや幸せで死んでしまわないために歌う」と書いている通り、当時シルヴィは数年来母の病状が重くて寝たきりの状態で大変に苦しい時期にいた。オリジナル作品だと製作に時間を要するため他アーティストの曲を歌って一呼吸し生気を取り戻したシルヴィ本人の「救いのアルバム」。しかし7月初旬の発売日直前、6月下旬に最愛の母が逝く。本作を携え開催した翌2008年3月のパレ・デ・コングレ公演は、トニー・スコッティが初めて舞台演出をし、従来のダンサー達の出演はない。この年はアーティスティックな面で急転換の年となる。≪観客により近く歌詞がより伝わるようなステージ≫を好むようになる。, 2009年9月、ミュージシャンと直接同時録音のアコースティック新譜アルバム「Toutes peines confondues(悲しみは全て混じって)」発売[13]と同時に、オランピア劇場でシルヴィ・ヴァルタンには新しいリサイタル形式のアコースティック・コンサートを開催。シルヴィ作曲を含む新作同様、母を亡くして間もないシルヴィが歌うシャンソン歌手バルバラの「Mon enfance(私の幼い頃)」が話題となる。ジョニー・アリディが第2部に連日ゲスト出演。続く国内外ツアーでイスタンブールからソフィアまで巡演。バルバラの「Mon enfance(私の幼い頃)」について、「バルバラの生き方が好きだ。ショウ・ビジネスと距離を置いていた、そして自分の職業に対して大きな愛情を持っていた。『私の幼い頃』は私の同一体験だ。歌わずにいられない。私はその言葉に入り込むだけだ、目を閉じるとそこに自分自身を見る。私のテンポと感情のリズムで歌う」[14] 又、他誌のインタヴューの中で「レパートリーの中であなたを要約する歌はあるか?」の問いにこの歌を挙げて:「最近まで注意を払ったことがなかった。この歌の意図・事柄やその言葉に心を打たれた、それは私自身のものだった。バルバラが “mures écrasée /押し潰された木イチゴの匂い ” を思い浮かべる時にそれは明らか。子供の頃、私達の家の庭に大きな木イチゴの木があった、大きな布を敷いて木イチゴをその上に落とした・・・」[15], 2010年3月1日オランピア劇場公演ライヴCD / DVD「SYLVIE LIVE」発売。続いて同劇場にて3日間の追加公演の最中に12月初旬のパリ・シャトレ座 (Théâtre du Chatelet) 初公演が決定する。11月に新譜アルバム『Soleil Bleu(ソレイユ・ブルー / 青い太陽)』をリリース。若手シンガー・ソングライター、ケレン・アン等のプロデュース。ケレン・アンは作曲の他ミュージシャンやコーラスとしても参加。これに先立って9月21日公共放送フランス3はシルヴィ特別番組を放映。また、2年ぶりに来日し11月15日に在日フランス商工会議所の年次イヴェント・ガラGALA2010に招待されてアルバム・タイトルでもある新曲「Soleil Bleu(青い太陽)」(作者でシンガー・ソングライターJulien Doreジュリアン・ドレとのデュオ)を初披露。12月5日シャトレ座初公演は最新作『Soleil Bleu(青い太陽)』の初披露の場となる。プログラムは、アルバム全12曲中11曲が「Mon enfance(私の幼い頃)」と共に核となり全32曲。, 2011年レコード・デビュー50周年を迎える。インタヴューされる毎に、従来、自分のキャリアを祝う事に無関心であると話す。2009年9月オランピア劇場公演以来アコースティック・リサイタル・ツアーを行い、2010年11月の凱旋により9月30日から10月2日迄再びパリ・シャトレ座公演を行う。「コンサート・ツアー2011」は2月10日スペイン・バルセロナのカタルーニャ音楽堂公演から始まり、7月にモントリオールとニューヨーク(ロウズ・リージェンシー・ホテル・ファインスタインズ(ボール・ルーム))で、11月はイタリアで公演。本コンサート前、3月は一カ月間パリ8区のマリニー劇場 (Théâtre Marigny) で演劇出演をする。アメリカでロングラン上演された話題の作品で1月から6月まで上演される「L'amour, La mort, Les fringues (Love, Loss and What I Wore)」- 脚色・演出ダニエール・トンプソン、オリジナル脚本ノラ・エフロンとデリア・エフロン、原作アイリーン・ベッカーマン、翻訳本『あのときわたしが着ていた服』。女性5人が舞台に登場する朗読劇で5人の俳優は毎月交代で演じ総勢30人が出演。, 11月にステージ・キャリア50周年を迎えて、11月23日にファン待望の50周年記念コンサートをパリのクラシック音楽の殿堂、サル・プレイエル(Salle Pleyel)でソフィア・フィルハーモニー管弦楽団(Sofia Philharmonic Orchestra/指揮Deyan Pavlovパブロフ・デヤン)を伴って開催。2時間半を超える本特別公演にはフランスとブルガリア両国の文化大臣も姿を見せ2000人の観客を前に30数曲を歌った。プログラムは1964年の大ヒット曲「アイドルを探せ」(フランス語原題:La plus belle pour aller danser/踊りに行く一番の美人)でスタートし、ブルガリア音楽2曲「Oblatche le bialo」「Moya Goro」の他「Je croyais」(1976)を含むスタンダード・ヒット曲、また本コンサートのために制作された新曲2曲等、第二部は白いタキシード姿で登場し「La Maritza」(想い出のマリヅァ)や1972年以来コンサートの定番である「Mon père」(モン・ペール/私の父)そしてデビュー直後の十代のヒット曲メドレー、フィナーレではジャック・ブレルの「Quand on n'a que l'amour」(愛しかない時)を歌いあげ、最後に「Ma vie c'est moi l'ai choisie」(フランス語・ヴァージョン「My way」)を朗読した。公演後、ブルガリア文化大臣は同国勲章Saint Cyrille et Methode et Le Siecle d'orを授与、又レコード会社SonyRCAはこれまでレコード4千万枚を売上げた実績に対して特別トロフィーを贈った。翌日付Le Mondeル・モンド紙は「Toujours la plus belle pour aller chanter」(いつも、歌う一番の美人)の見出しで記事を掲載し「オーケストラは"シンフォニズム"はせず、当世風や流行に傾倒しない一つの行儀のいいバラエティーのアレンジに徹した。」「約40曲程を歌ったステージは記念公演という罠に掛からなかった。プレイエルで、シルヴィ・ヴァルタンはシンプルで心のこもった舞台魂だったといえる。」と結んだ。12月14日、フランス文化大臣から同国芸術文化勲章-等級コマンドゥーが授与され、その模様は高視聴率を誇る民放TF1のTVニュース13時が放映。「大臣は4千万枚のレコード売上を達成したスター・アーティストが持つ≪そのユーモアとプロフェッショナリズム≫を語りまたサル・プレイエル公演での≪その気品、ポエジーや陽気≫に言及した。」「この≪本物のアメリカ的ロックンローラー≫は≪B.バルドーやC.ドヌーヴよりも多く≫メディアに写真撮影されたとの事。」[16] 12月にサル・プレイエル公演ライヴCD2枚組そして2012年2月にDVDが発売される。, 2011年はまた、1990年に今は亡き実兄エディ・ヴァルタンと共に設立した故国ブルガリアへの人道支援活動をする非政府団体 Association Sylvie Vartan pour la Bulgarieが20周年を迎える。特に新生児医療に尽くして来て多くの要請があると言う, 2012年6月「The Ultimate Collection (Coffret des années RCA rééditions)」(RCA時代1961-1986のオリジナル41作品のリマスター・レプリカ復刻盤CD全集)が発売開始される。これはスタジオ録音盤、ライヴ録音盤(日本公演ツアー盤[17]を含む)、TVコメディ・ミュージカル・ショウ主演番組など初CD化を含めた正に全集。ミニチュア・ペーパースリーヴ(紙ジャケ仕様)でCD本体のデザインは黒のドーナツ盤。2013年末まで約1年に亘り限定生産されるコレクション・ボックス。日本ではフランス発売後に単品で発売される。, 2013年は2月初旬の日本公演(東京と大阪)から活動スタートとなった。日本公演後、3月5日パリで記者会見を開き今後の活動について、「2014年にカントリー・ロック・ポップな新譜を持って公演ツアーを予定」 [18]。翌朝3月6日付ル・パリジャン紙は「尽きることのないシルヴィ・ヴァルタン」の見出しで写真入り会見記事を一面に載せた。5月に1963年以来50年ぶりにアメリカ・テネシー州ナッシュヴィルに戻り新譜を録音。猛暑の8月初旬、コルシカ島アジャクシオを含む南仏リゾート地での4日間野外≪シンフォニー・ツアー≫はパリ・サル・プレイエル公演(2011年)に優とも劣らぬ大盛況で閉幕した。, 10月14日に新譜「SYLVIE IN NASHVILLE」 をリリース。5月にカントリーロックをテーマに≪音楽の街≫ナッシュヴィルに戻りStarstruck Studiosにて録音した意欲作。マイケル・ロイド(Michael Lloyd)指揮の下、起用した現地名ミュージシャン達はニール・ダイアモンド(Neil Diamond)、スティング(Sting)、テイラー・スウィフト(Taylor Swift)等と仕事をした中堅。オリジナル新作とカバー (「I Like It I Love It」、「Cheveux au vent」 (Against the Wind)、「Mr.