©Copyright2020 ダリマナ darimana.All Rights Reserved. ジャカルタふらり旅 今回はふたりです。中華街&旧市街地コタを歩きます。オランダ統治時代の建物が素敵です。 171201 - Duration: 17:39. 93, Surabaya 60281, INDONESIA 電話番号: (031) 503-0008 FAX : (031) 503-0037, 502-3007 (領事関連) ホームページ https://www.surabaya.id.emb-japan.go.jp/j/ 休館日:土、日, 在デンパサール日本国総領事館(Consulate-General of Japan in Denpasar) 住所:Jl. %%EOF
1965年の独立記念日(8月17日)には、世界銀行とIMFからの脱退も宣言した[34]。 h��n�F�� ]w=@7q�s�!�%�G��R�傑��D 定休日 月曜日 %PDF-1.6
%����
Bandung. h�b``Pb``�����2a*`�2p4 �)A1C3�CvC���Z�
Z�Y��1,a����à̵�A���|�����2�O|��d�Y���:�A�ӣ�����5b�X&1��l`f`Y� Raya Puputan No.170, Renon, Denpasar, Bali 電話番号:+62 03 6122 7628 FAX:+62 03 6126 5066 開館時間:8:30~12:00、13:30~16:00 休館日:土、日、祝日 ホームページ:https://www.denpasar.id.emb-japan.go.jp, インドネシアの治安は日本ほど良くはないです。ただ気を付ければ安全で落ち着いて楽しむこともできます。, 彼らの生活やルールというものを多少は知っておかないと、困ることがあったり、場合によっては危険な目に遭ってしまうこともあるかもしれませんので、イスラム教の知識も入れておくことが大切だと思います。(※バリ島はヒンドゥー教になります), ちょっと今回紹介したことは多すぎたので、何度も確認して、繰り返し読んでインドネシアを満喫してくださいね。, それがボロい服を着ろ!ということ、それだと貧乏に見えて襲われないらしいです・・・本当だろうか・・・. 7世紀から11世紀にかけてスマトラ島南部パレンバンを本拠とするシュリーヴィジャヤ王国(7世紀-13世紀)がマラッカ海峡を制圧し、南海貿易をコントロールし仏教文化が栄え繁栄を極めた。, ジャワでは、8世紀前葉に古マタラム王国とシャイレーンドラ朝(8世紀-9世紀)が建国された。シャイレーンドラにより8世紀末から9世紀初めにジャワ島の中部に建設されたボロブドゥール寺院は、底部の一辺が120m、高さ約42mという巨大な大乗仏教の石造ストゥーパである。カンボジアやベトナム南部のチャンパ王国まで遠征したという説があるが、もともとインドネシア半島にいたオーストロネシア系の人々を指すとする見解が近年は有力である。, 古マタラム王国は、10世紀初め頃まで続き、壮大なヒンドゥー寺院であるプランバナン寺院群を建設した。, 929年には、東部ジャワにクディリ王国が建国され、交易の利権をめぐって、ダルマヴァンシャ王がシュリーヴィジャヤの覇権に挑んだが、結局1016年にダルマヴァンシャが殺害されて、シュリーヴィジャヤの勝利に終った。しかし、1025年に南インドを支配していたチョーラ朝のラージェンドラ1世の軍勢の遠征でシュリーヴィジャヤは打撃を受けたことで衰退することになる。, その後、ジャワでは、1222年にケン・アロク(英語版)によって、シンガサリ朝が建国された。最後の王クルタナガラのとき、モンゴル帝国、元朝の使者が来たが、その顔に刺青を入れて送り返したので、元の大ハーン、皇帝クビライは報復として大軍を派遣した。ジャワ島は元の遠征(モンゴルのジャワ侵攻(英語版))で被害を受けたが、やがて元軍を撃退したラデン・ウィジャヤ(英語版)が1292年にマジャパヒト王国を建国した。, マジャパヒトは、名宰相ガジャ・マダのもと、14世紀から15世紀にかけて繁栄した。1365年に完成させた古ジャワ語の韻文叙事詩(英語版)『デーシャワルナナ Desawarnana(地方の描写)』(通称『ナーガラクルターガマ(英語版) Nāgarakertāgama(聖なる教えによって完成された王国))』は、ジャワ島東部を本拠として今日のほぼインドネシア全域、フィリピンの一部やマレーシアを含めた広大な版図を支配したとする。これは史書の筆法に過ぎず、それぞれの地域に一時的に影響力を行使した可能性は残るものの、これらの領域を同時に支配したわけではない[要出典]。, 東南アジアの諸王朝でイスラームの受容がはじまるのは、13世紀末頃のスマトラ島北部においてであり、その中心地はパサイ王国だった[4]。これに先だって、すでに11世紀頃にはムスリム商人の往来がはじまっており、彼らは現地の支配者層と密接な関係を築いていた[5]。, ヒンドゥー教国だったマジャパヒト王国では、その末期に王クルタウィジャヤ(インドネシア語版)が、チャンパからムスリムの公主を息子のブラウィジャヤ(インドネシア語版)の妃に迎え、また、国内ではイスラームへの改宗を容認した。15世紀にマジャパヒト王国を訪れた明の鄭和は雲南出身のムスリム中国人であった。クルタウィジャヤはムスリムの経済力に太刀打ちできず、王朝の権威は低下したがイスラーム化はしなかった。, ジャワ島におけるイスラーム国家成立の歴史は、15世紀末に建国されたドゥマク王国にはじまる。ドゥマク王国は、1478年にマジャパヒト王国のブラウィジャヤ王に宗主権を認めさせた。また、ジャワ北岸のイスラム化した港市国家もマジャパヒトから離反し、内陸部に勢力をもつマジャパヒト王国は、海岸に面した良港をもつ北岸の諸国への影響力を失った[6]。ドゥマク王国は16世紀前半にマジャパヒト王国を倒して、ジャワ島で最初のイスラーム国家になった[7]。ジャワ島西部でも、ドゥマク王国の支援を受けたバンテン王国がイスラームを受容し、ジャワ島全域でイスラームが浸透していった。, ジャワ島で活発な布教活動をおこなったのはワリ・サンガ(九聖人)といわれるスーフィー聖者たちであり、彼らはジャワ島の各地にプサントレンを作って、そこを拠点にジャワ人子弟を教育し、民衆レベルでのイスラーム浸透に積極的な役割を果たした[8]。, スマトラ島では、15世紀末にはすでに独立していたアチェ王国がイスラーム化しており、この海域での交易の中心地として発展を遂げた。また、16世紀前半には、マラッカ海峡に面するスマトラ東岸のほとんどの港市がイスラームに改宗していた[9]。, 16世紀になると、大航海時代のヨーロッパ勢力が香辛料貿易の利益を求めてこの地域にあらわれるようになった。, 1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。オランダ人たちは前世紀にこの地域に到達していたポルトガルや、同じ時期にやってきた競争相手のイギリスを追いやってこの地域における主導権を握り、長い時間をかけて次第に支配地を現在のインドネシアの領域全体へと拡大していった。, その拠点として1619年に制圧されたのがバンテン王国の首都ジャカルタであり、オランダ人はこの町をバタヴィアと改名した。, 1660年よりオランダ東インド会社は、スラウェシ島のマカッサル西海岸でゴワ王国(英語版)との戦争に突入し、1669年にスラウェシ島支配に関するボンガヤ条約(英語版)が締結された。1665年から1667年にかけての第二次英蘭戦争で、バンダ諸島のラン島(香辛料貿易)とニューネーデルラント植民地のニューアムステルダム(毛皮貿易)の自治権とを交換して獲得し、香辛料貿易(ナツメグ、クローブ等)の独占を図った。イギリスは既に種子を持ち出しており、1815年頃からモーリシャスやグレナダなどでプランテーションを開始すると、香辛料はありふれた商品となってバンダ諸島の価値は相対的に下がっていくことになった。, 18世紀には3次にわたるジャワ継承戦争(第1次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)、第2次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)、第3次ジャワ継承戦争(インドネシア語版))と華僑虐殺事件によってマタラム王国が4分割されてオランダ東インド会社の保護下に組み入れられると、ジャワ島全域がその支配下に置かれた。1825年にはスルタン家のディポヌゴロがオランダへの反乱を起こすが、1830年に鎮圧されている(ジャワ戦争)。, 19世紀に入るとナポレオン戦争によるオランダ本国の混乱もあって一時支配力が弱まるが、オランダ東インド会社が解散されてオランダ本国による植民地直接統治が始まり、オランダ人によるプランテーション経営が広まって経済的な搾取は強まっていった。, 1815年5月5日、スンバワ島のタンボラ山が噴火。翌年、夏のない年と呼ばれる異常気象に見舞われた。, パドリ戦争(1821年 - 1837年)。 F��Dq�'J@($����=�A { endstream
endobj
8 0 obj
<>/OCGs[44 0 R 45 0 R]>>/Pages 5 0 R/Type/Catalog>>
endobj
9 0 obj
<>/ExtGState<>/Font<>/ProcSet[/PDF/Text/ImageB]/Properties<>/XObject<>>>/Rotate 0/TrimBox[0 0 515.906 728.504]/Type/Page>>
endobj
10 0 obj
<>stream
�F�S]wч�[t�n��
ڞCZ�hٌ�E�#r��sf曟) %Rn��Di"
1�HK,#�#�
航空会社の「001便」はどこを飛んでいる?「以遠権」による格安フライトにからめて。, バンダルランプン観光記。ジャカルタから飛行機で40分、スマトラ島最南端の街でツーリング!, 【2020年最新版】インドネシアの銀行で定期預金!最大5.75%の金利を受けれるのは?, インドネシアでマッチングアプリ「Tinder」を使って100人の女の子と出会う方法。, 【最安・最速】広島-福岡(博多)間の移動方法の比較。最安は1500円から。最速は1時間から。, 【2019年版】世界のマリオット/SPG格安ホテルトップ100!プラチナ修行(50泊)にうってつけ!, 【兵庫横断ツーリング】国道196号線沿い、丹波の鐘ケ坂トンネル周辺にある廃墟『吉祥苑』を訪れた。, インドネシアのマリオット全57ホテルを訪れてレビューしてみる(2020年1月時点). b;�2@� KL�
このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。, ジャパネシアは日本が大好きなインドネシア人、インドネシア大好きな日本人、そして、そのどちらかであるあなたが集まるところです。, ジャパネシアのメルマガでは最新情報やイベント情報などが受け取れます! JLCは初月無料キャンペーン中の今お試しください!. Pokok-pokok hukum acara perdata. 1966年9月にインドネシアは国連に復帰した。その後、スカルノは事件への関与を疑われるきびしい立場に追い込まれ、国軍が煽動する反スカルノの民衆運動によって辞任への圧力をうけた。 しかし1998年のジャカルタ暴動を取り上げ、当時の居場所などについてあれこれ話すと、室内の声はひそひそと静まり返ったのです。 かつて、演劇芸術の生徒として、私はトーンや身振り手振り、表情を観察する事を学びました。 マラリ事件(マラリじけん)は、1974年1月、田中角栄首相がインドネシアを訪問した際に、首都ジャカルタで発生した暴動である。この「マラリ」とは、インドネシア語の「Malapetaka Limabelas Januari(1月15日の災難)」の略称である。, 暴徒たちは、日系企業がインドネシアのスハルト大統領側近の将校たちや華人系財閥と癒着してビジネスを拡大していると主張して暴動を起こしたとされる。華人系・日系の代理店や事務所・日本車などが焼き討ちにあった反日暴動であった。一方で、スハルト政権の「新秩序体制」に対する不満が爆発した反政府暴動的側面、さらには事件を利用したスハルト政権内部の権力闘争の側面をも持ち合わせていた[1]。, 当時のインドネシアは、1973年秋ごろからスハルト政権下で下火だった学生運動が息を吹き返しつつあった時期であり、インドネシアでは、自国政府と、その政府を支援する外国への批判が強くなっていた[2]。このため、田中がインドネシアを訪問する際、日本側もある程度のデモが行われることを予測していた。しかし、マラリ事件の激しさは、日本側の予想を超えていた[3]。, 1974年1月14日、田中角栄首相は東南アジア歴訪の最後の訪問国としてインドネシアを訪れるべく、ジャカルタのハリム空港に到着した。しかし、デモ隊によって空港から迎賓館への主要道路はすべて封鎖されており、迂回して迎賓館へ向かった。迎賓館での会議そのものは平穏無事に終わったが、迎賓館の外では暴動が過熱し、[4] 3日間にわたる内乱の中で、11名が殺され、17名が重篤な傷をおい、120名が負傷、おおよそ770名が拘束された。また、1,000台以上の車両が破壊され、144棟の建屋が破壊されるか焼損するかした。[4][5][6]暴動の様子は日本国内でもテレビ中継され、インドネシア国民の激しい反日感情に日本国民は衝撃を受けた。スハルト大統領は田中との会談の最中、暴動に関して遺憾の意を表明した。デモの中心となった学生運動家たちは、日系企業がスハルト側近の将校たちや華人系財閥と癒着してビジネスを拡大しているとして暴動を起こしたとされている。結局、田中はインドネシア訪問の最中、迎賓館から出ることは一度もなく、インドネシアを発つ17日にはヘリコプターで空港まで向かう羽目になった[7]。, インドネシア政府は事件から一週間後、「暴動は政権打倒と憲法改正を目指す謀略だった」との結論を発表した。当時の治安責任者だったスミトロ(インドネシア語版)は更迭されるが、後に権力の座に返り咲いた[2]。, インドネシア側は、この事件を機会に、スハルトへ更に権力を集中するようになった[3]。, 一方、この事件は、日本人のインドネシアに対する見方や文化交流、外交の考え方を変えた。それまで日本では、インドネシアを商売の対象として見る考えが強く、インドネシアの文化を学ぶ事には消極的だった。スハルトも日本人を「インドネシア文化を理解することに消極的だ」と評していた。この事件以降、日本は、自国文化を紹介すると同時に、相手国の文化も学ぶという文化交流に力を入れ始めるようになる。外務省は、この事件を期に文化交流事業を推進するようになった[3]。, この流れは、のちの福田ドクトリンとして結実し、現在のインドネシアの良好な対日感情にも繋がることとなった[8]。, この事件は、現在のインドネシアの若者にはあまり知られておらず、邦字新聞のじゃかるた新聞が2014年1月に行われた学生100人を対象にしたアンケートでは、100人中66人が事件を全く知らないと回答している[2]。, スハルト体制下における与党ゴルカルの変容とインドネシアの政治変動 : 翼賛型個人支配とその政治的移行, http://www.jakartashimbun.com/free/detail/15619.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=マラリ事件&oldid=80003455. ORANG JAPAN!(私は日本人です。)」って叫びながら裏道を逃げました。多くの中国人が標的とされたので、日本人である事をアピールして逃げる作戦でした。当時、日本はインドネシアに経済援助を行っていましたので、インドネシア人はその事を知っており、日本人に比較的好意的でした。, 「危ないから早く家に入りなさい。」そんな時に裏道の小さな家のおばちゃんが家の中にかくまってくれました。見ず知らずの日本人をかくまってくれてくれた事を今でも感謝しています。その家で夜中までじっとしていました。目を閉じると黒く焼けたホテルと車、ガラスの割れる音が聞こえます。ジャカルタ市内には霧がかかった様になっていて焦げ臭い匂いが漂っています。来なきゃ良かったって後悔よりも生きてて良かったって気持ちでした。, 明け方、おばちゃんの近所の人と交渉して空港まで車で乗せて行ってもらいました。ありったけの所持金を渡しました。もう二度とこんな所に来るもんか!って思いました。大きな飛行機には僕を含め数名しか乗客がいませんでした。聞くと「満席なんだけど、道が閉鎖されてて空港まで来れないのだろう」との事でした。, 成田空港に着くとテレビカメラやラジオ局の取材を受けました。テレビでよくやってるあれです。とりあえず、あちこちに電話で帰国の報告をして家に帰りました。実はあんまりこの辺は覚えていないんです。とにかく帰って来れた事だけに感謝しました。, 帰国後数年はガラスの割れる音がとても怖かったです。心臓がバクバクしてしゃがみ込む位に怖かったです。あれから20年が経っていますが、もう二度と行くもんかと思ったインドネシアに今でも通い続けています。あの時、暴動を起こした人達も生きる為に仕方なくやった事だと考える様になったからだと思います。, 25年も海外に行くと色んな事があります。良い事も悪い事もありますが、今の仕事を続けていられる事に感謝しています。原産国に好きなアロワナを選びに行って、それで今まで生計を養えているんですから、これ以上の事ってあんまりないですよね。勿論、皆様に支えられてのラフレシアだという事もありがたく思います。, ↓ブログランキングに参加しています。下記バナークリックで多くの方のアロワナブログをご覧いただけます。 Notify me via e-mail if anyone answers my comment. インドネシアに旅行に行こうと思ってる、あるいは会社でインドネシアに転勤が決まった。などなどインドネシアに行くにはいろんな理由があると思いますが、その時に気になるのは「治安」です。, 治安という面で考えてみると、たとえば2016年1月14日ジャカルタの中心街にあるサリナデパートでテロが起きました。, この事件は日本でも大きく取り上げられたので知っている人も多いと思います。そしてこのサリナデパートはタムリンという地区にあり、日本人でジャカルタに住んでいれば絶対に知っているほどの有名スポットです。, 実行犯とみられる5人と民間人2人の計7人が死亡し、インドネシアの大統領のジョコ・ウィドド大統領もテロと断定しています。, マクドナルドやスタバなどもあり、活気のある場所で急にテロが起きたわけですから非常に怖く感じるのも事実で、僕はその時は日本にいたのですが、ジャカルタに住んでいる知り合いに連絡とってみると、みんなそれほどパニックになることもなく、いつも通りな感じでした。, さて、インドネシアの治安と言っても、インドネシアでもジャカルタとバリが最も日本人が行く場所ですので、この2つを今回はピックアップします。, 2016年にもテロは起こったのですが、実は、2009年にもJWマリオットとリッツ・カールトンでテロが発生しており、ここもジャカルタの中心のクニンガンで起こっています。, これはイスラム過激派の犯行です。インドネシア人のほとんどはイスラム教徒ですが、これとは全く違いますので、インドネシアの大半のイスラム教徒は非常に優しく、温和です。そして過激派に対しては否定的です。, テロに関しては正直、防ぎようがないです。爆弾によるテロが多いですので、もしも不審物を見かけたら触らない、近づかないことが最も重要だといえます。, 1997年にはアジアの通貨危機が起こったので、全体的な景気悪化でデモが盛んにおこなわれていたらしいですが、これはこの時ではなく、最近でもずーっとやっています。, デモは集合をかけて大規模に行われるので、行われる日時は在インドネシア日本国大使館 の公式HPで紹介されます。, たとえば2016年、6月2日には「明3日(金)午後1時から、イスラム擁護戦線(FPI)による4千人規模のデモが行われる模様」と告知されているので、出かける前日や、直前にはチェックする習慣を持っておく必要があるでしょう。と載っています。, 報道及び当地治安当局からの情報によれば、明3日(金)午後1時から、イスラム擁護戦線(FPI)による4千人規模のデモが行われる模様です。デモ隊は、午後1時にイスティクラル・モスクから大統領宮殿へ移動し、抗議活動を行った後、次いでジャカルタ州政府へと移動する見込みです。, 大体、毎年6月初めから7月の頭にかけての期間を「ラマダン」と呼び、この期間イスラム教徒は断食をします。大体この期間はおなかがすくし、しかも早起きしてお祈りする習慣もあるので、イライラしたり、感情的になることが多いです。, そして最も危ないのは、「断食明け」です。「レバラン」と呼ばれるもので、ものすごい数のイスラム教徒が故郷に帰るので、電車もバスもタクシーもいっぱいいっぱいになります。, 故郷に帰るにはお金は必要ですので、その時期に犯罪を働いてお金を稼ぐ人もいます。そして日本人はお金を持っているイメージがあるので非常に狙われやすく危険です。被害に遭う、遭いかけたという話はチラホラ聞きますし、この時期(7月はじめ)にはあまり出歩かないほうが良いでしょう。, そして、断食月に日本人がジャカルタでお酒を飲んでいたら、警察がガサ入れをして、キタス = KITAS(一時居住カード)を持っていない人は警察に連行されることがあります。警察官は日本のようなものではなく、基本的に賄賂(おこずかい)を渡せば解放してくれます。この出来事も、ラマダンやレバラン時期には多くなるものです。, また、メイドを雇っている日本人駐在員の方も多いですが、レバランの時期には給料をアップしているという方も多いようです。, 以前、「ジャカルタ・モナスで会った優しいガイドにぼったくられた話」でもこのことについて触れたことがありますが、大きな犯罪とは言わなくても、ちょっとお金を損してしまうことは良くある話です。, お店でぼったくられたり、おつりをごまかされたり、などなど「まあこれもインドネシアか」と慣れていただければいいのですがこんなことあるよ~というのを紹介させていただきます。, ジャカルタには歩く道がありませんので、通常はタクシーかオジェックと呼ばれる二人乗りバイクでの移動になります。それかバジャイという小型自動車の3種類が主です。, タクシーはブルーバードかエクスプレスタクシーが安全です。この2つが定番でジャカルタであればどこでも走っていますし、もちろんメーターもついています。, 初乗りは6500ルピア(65円)と格安ですし、安全に乗るにはまずこれを選んでおきましょう。最近ではウーバーなどのアプリでタクシーよりも安く乗れるようになりましたが、現段階では比較的安全です。, タクシーの選び方やウーバータクシー、その他交通機関に関する情報は「空港からも安心!ジャカルタのインフラ情報と安全な交通手段」にまとめているので参考にしてみてください。, そして、乗り合いバスなどもありますが、スリなどが起こる危険もあるので安全面を確保していれば安全ですが、個人で乗るタクシーよりかは危険性は上がりますので注意が必要です。, そして、運転手を雇う場合は、絶対に大事な荷物は車の中に置きっぱなしにしないようにしましょう。窓ガラスを割ってものを盗まれるケースは結構あります。例え、近くのコンビニに行くだけというときにでも大事な荷物は持っていきましょう。, そして、もちろんのことですが、ドラッグはダメです。もしも、人にドラッグの話を持ち掛けられたとしても相手にしないようにしましょう。, ドラッグの売人はジャカルタよりもバリのほうが多いですので、詳しくは次のバリのところで説明します。, そんなこんなで、ジャカルタは危ない部分もあるけれど、しっかりと注意していれば治安は安全ということもできます。, ヤンティもジャカルタに行ったときにデモの様子を撮影してくれています。ジャカルタの雰囲気がどんな感じか知りたい方は「ヤンティのジャカルタ観光!大規模デモ中の治安は大丈夫?」を読んでみてください。, そしてホテルなのですが、基本的にはアゴダで選んでいます。というのも他のサイトよりも明らかに宿泊料金が安くて、しかも口コミが見れて安全性も非常に高いので絶対にまずチェックしたほうがいいです。, スラバヤに関して言えば、テロなどが発生していない街として有名でしたが、2018年の5月13,14に、テロが起きており、十分に注意をしなければなりません。, そして、最近、日本人からも人気がでてきているインドネシアのおしゃれな街。マランですが非常に落ち着いた町で、危険性はジャカルタやスラバヤに比べると安全だと言えます。, そしてバリですが、やはり一番治安が悪いのはクタということになります。僕もスリに遭っているのでバリ旅行をする場合には注意すべきでしょう。楽しいところには多くの犯罪が潜んでいるものです。, そして、これは女性が引っかかりやすいのですが、バリ島には多くのジゴロ=(女性から金を得て生きている男)が存在しています。彼らは組織ぐるみで活動していて、女の人に甘い言葉をかけて持ち上げて持ち上げて付き合って、結婚をほのめかします。そして、お金は持っていないからごはんをおごってもらったり、家に泊めてもらったりしながらお金を搾り取っていきます。, だから、同時に複数の女性にアプローチし、非常に演技も口もうまいです。集団で連携して、女性との関係を維持すること協力しながら行い、得たお金は仲間で分配する組織的な犯行です。, そして、人によってはギャンブルが大好きで、バリ人とも賭博をしたいと思っている人もいるかもしれませんが、バリで出会った人と賭博をしても、最初は勝たせてくれますが、掛け金が上がってくると最終的にイカサマをして儲けるというやり方でお金を損してしまうのがオチです。, ですので、遊び金と割り切れるのであればやってもかもしれませんが、勝とうとしても勝てない仕組みになっているので注意してくださいね。, バリの繁華街、クタにはたくさんの日本語が話せるバリ人がいますが、彼らは夜の道を歩いていると「マヤク・マヤク」「マリファナ・マリファナ」などと言って声をかけてきます。, ちょっと怖いのは、飲み屋に出かけて、声をかけられたりすることです。僕もバリ人が親しげに話しかけてきて、最後にはクスリの話を持ち出されたことがありますが、その時点で速やかに席をはずして離れました。怪しいヤツには近づかない!そして興味を見せないのが鉄則です!, クラブなどでもお酒にドラッグを混ぜられたりすることもあるようですし、最善の注意を払いながら夜は遊びましょう。, そして、インドネシア全体に言える共通点、日本人の常識はインドネシアでは非常識です。, インドネシアに行く前に必ず覚えておきたいことをまとめているので、確認しておきましょう。, インドネシアの水道水は日本のように飲めるものではありません。飲むとほぼお腹を下し、食中毒になる可能性もあります。, インドネシアにはカキリマ(屋台)が道にたくさんありますし、おいしそうなローカルレストランも非常に活気があります。ただ、まだインドネシアの生活になれてない状態で行くとほぼお腹を壊すでしょう。, これらのことから胃腸薬は日本から持っていっておくといいでしょう。というより、持っておかないと最初はかなりきついと思います。, せっかくの旅行が楽しめなかったり、仕事が身に入らないという状況では困ってしまいますもんね。, そして予防接種は、日本で受けておくと病気になる可能性も少なくなりますのでご検討ください。, 保険料にお金をかけるのに抵抗がある方は多いですし、いらないでしょ。と思っている人も多いですが、初めてのインドネシアである場合は入っておいたほうが賢明です。, 僕は毎回AIJの一番安いプランに入っていますが、ネットでもできますし、空港でも窓口があり直接契約できます。, クレジットにも海外保険が付帯となっているものがありますが、現地での怪我の保障が不十分だったりしますし、盗まれた際の保障がないものもあります。, その他、バリ島での旅行の仕方の詳しいことは「プロの旅行記!鳥肌もんのバリ島のおすすめ人気観光スポットとホテルの選び方」がありますので、バリへ行く方は参考にしておきましょう。, 何もかも盗まれた状態では何をすべきかのかがさっぱり分からなく、パニック状態になってしまう人もいますが、ひとまず、落ち着くしかありません。, 一番いいのは、そういったトラブルが起こらないことなのですが、もしもの時のために、緊急連絡先をスマホのスクリーンショットや、手帳などに控えておきましょう。, 携帯電話がある場合には、110番で警察が呼べます。そして、気分が悪い、誰かが体調不良、事故でけがした、などのトラブルの場合には119番につなげばOKです。, そして、現地で携帯電話がない、誰も貸してくれる人がいない場合には日本大使館に駆け込みましょう。, 在インドネシア日本国大使館(Embassy of Japan in Indonesia) 住所:Jalan MH Thamrin No.24、Jakarta Pusat、DKI Jakarta 10350 電話番号:+62 21 3192 4308 FAX:+62 21 315 7156 開館時間:8:30~12:00、13:30~15:00 休館日:土、日、祝日 ホームページ:https://www.id.emb-japan.go.jp/index_jp.html, 在スラバヤ日本国総領事館(Consulate-General of Japan at Surabaya) 住所:Jl. 本当に恐ろしい出来事でした。それどころか、夕方テレビを見るとこの暴動はジャカルタだけで起ったものではありませんでした。二度とこのようなことが起らないように願います。二度と思い出したくありません。 1998年暴動記念集会 -tempo.co- 1965年1月7日、国連を脱退した[33]。 1967年3月、スカルノは終身大統領の地位を剥奪された。, 1968年3月、スハルトが第2代大統領に就任した。スハルトはスカルノ政権の外交路線を覆し、反共の姿勢を明らかにして西側諸国に接近、規制緩和と開放経済体制を旨とする経済再建策を打ち出した。, スカルノ体制から引き継いだ累積債務の処理について検討する IGGI (Inter-Governmental Group on Indonesia) が1966年に結成され、以後、この債権国グループと世界銀行を中心として、インドネシアへの経済援助を討議する枠組みが形成された[35]。1967年2月にIMFへ再加盟、同年4月には世界銀行にも再加盟した。, インドネシア共産党をはじめとする国内の左派勢力を一掃し、スカルノと同様に、大統領に強大な権限を付与する1945年憲法体制を引き継いだスハルトであったが、政権初期には政治的ライバルが少なくなかった。国軍内部にはなおもスカルノ派将校が存続しており、これらの将校を左遷したり粛清したりしつつ、スハルトが国軍をみずからの支持母体として確立するのは1969年になってからのことだった[36]。, また、スハルトは政権の正統性を内外に示すために、1971年に総選挙を実施することを決定した。この選挙に臨むにあたって、スハルトは1969年に新しい選挙法を制定し、みずからの支持母体としてゴルカルを選挙に参加させることにした。1971年7月3日に実施された選挙はゴルカルの圧勝に終わり、政党勢力の後退を決定づけた。その後、政権のイニシアチブによって既存の諸政党はインドネシア民主党か開発統一党(英語版)のいずれかに統合されることになり、党としての凝集性を失い、内紛の絶えない万年野党としての地位に甘んじるほかなくなった[37]。, このようにしてスハルトは政権基盤を安定化させることに成功し、「安定と秩序」のもとで経済発展を目指す「開発独裁」を推し進めていった。, 司法権の基本制度に関する1970年第14号法律により、日本軍政時代に一本化された裁判所の系列は、通常裁判所、宗教裁判所、軍事裁判所、国家行政裁判所の4系列となった[38]。, 1974年4月にポルトガルで左派政権が成立し、海外植民地の放棄を宣言すると、東ティモールでも、インドネシアとの併合を主張するティモール人民民主主義協会を押さえて、完全独立派の東ティモール独立革命戦線(フレテリン)が全土を制圧し、1975年11月28日、東ティモール民主共和国として独立を宣言した。これにインドネシア政府が武力介入し、東ティモールの併合派を支援して、インドネシアとの併合を宣言させ、1976年7月17日、東チモールは27番目の州となった。その後、フレテリンはゲリラ戦に移り、地下活動を継続しながら、東ティモールの独立をめざしていくことになった。, また、もともと人口の多かったジャワ島とバリ島の人口過密が問題になると、これらの住民をスマトラ島、ボルネオ島(カリマンタン)、ニューギニア島、モルッカ諸島といった周辺島嶼への移住・入植を奨励した。ジャワ島の住民が各島嶼へ散らばったことによって、ジャワを中心とする統一したインドネシアの観念が広がったが、入植した各地で元の住民との軋轢が生じた。, スハルト政権は30年の長きにわたって続いたが、1997年にアジア通貨危機が起こって経済が危機に瀕すると国民の不満が爆発、民主化を求める市民の群れは、ジャカルタを中心に暴動に発展し、中華街が暴徒によって破壊されるなど、大混乱に陥った(翌1998年5月のジャカルタ暴動(英語版))。そのためスハルトは1998年に大統領辞任に追い込まれた。, スハルトから大統領職を譲られたハビビは、民主化を要求する勢力の機先を制するかたちで、政治犯の釈放、労働組合の合法化、政党設立と活動の自由化、言論・集会の自由化、などを打ち出した[39]。, このように政治的自由化をすすめるとともに、それまでの中央集権による地方統治方式も改め、地方政府に大幅な権限を譲渡する新地方行政法、中央・地方財政均衡法を制定した。また、従来地方を押さえ込んできた内務省と国軍地方師団による「領域管理」も改められた[40]。, こうした一連の地方行政改革によって、インドネシアは地方分権化の流れに乗ったが、その一方で、スハルトの強権によって抑えられてきた問題のたがが次々に外れ、国家の統一が脅かされることにもなった。, マルク諸島ではムスリムとクリスチャンの紛争が虐殺に発展[41](マルク諸島・アンボンの宗教紛争(英語版))、アチェでは分離運動が激化して国軍が介入し内戦化(Insurgency in Aceh)、東ティモールでは住民同士あるいは住民と国軍の衝突が起き(東ティモール紛争)[42]、社会不安はかえって深まった。, 東ティモールは1999年に住民投票で特別自治権提案が拒否され、独立が事実上決定したが、インドネシア治安当局が反発し武装勢力を使った破壊工作が行われ、国連平和維持活動の介入を見るに至った。その後、国連暫定統治を経て2002年に東ティモールは独立した。, 1999年、議会の総選挙が行われるとスカルノの長女メガワティが率いる闘争民主党が圧勝し、国民が変革を求めていることが明らかになった。同年秋の議会による大統領選ではイスラム指導者(ウラマー)の団体ナフダトゥル・ウラマーの議長アブドゥルラフマン・ワヒドが当選し、メガワティは副大統領に収まる。, しかしワヒド大統領は国民の期待に反して混乱終結に向けてほとんど有効な手を打つことができず、2001年に罷免に追い込まれた。, かわって就任したメガワティ大統領は、アチェに対して戒厳令を敷くなど断固たる態度をとったが、経済問題に対する無策から国民の信頼を失い、2004年秋の初の国民直接投票による大統領選挙では国軍出身のユドヨノが大統領に当選した。, 2004年12月末、スマトラ島沖地震が発生して、地震と津波によってアチェを中心としたスマトラ島沿岸が壊滅した。国際緊急救援活動が行われたが、100年ぶりとも言われる津波被害は甚大であった。翌2005年に入ってニアス島沖でも余震と思しき地震が起こり、再び被害を与えた。, ユドヨノはまず地震対策に追われることとなるが、被害が甚大であるはずのアチェには、国際機関が大規模に介入しないよう工作した。8月に政府はアチェと和平を結び、アチェ側の武装解除を条件に国軍を撤収させた。, 2006年7月23日午後3時22分ごろ、スラウェシ島沖でマグニチュード(M)6.6の地震があった。, これは史書の筆法に過ぎず、それぞれの地域に一時的に影響力を行使した可能性は残るものの、これらの領域を同時に支配したわけではない, 一方の民族主義運動の指導者たちも、軍政当局によってあたえられた地位を活用して民衆に語りかけ、その民族意識を鼓舞した, これに併せて日本は、オランダ支配下で迫害されていたイスラム教の存在を認め、イスラム教徒による活動を自由化した他、オランダが行っていたオランダ語による初等教育、高等教育に変わって、インドネシア語と, 永積昭「オランダにおけるインドネシア留学生の活動(1908-17年)- 「インドネシア協会」成立前史 - 」、『, こうした方針を立てたのは、東インド社会民主主義連連盟結成に携わったオランダ人社会主義者スネーフリートの発案によるものであった。のちにスネーフリートは、中国における共産党と国民党の連携(, 1928年10月27日から28日にかけて開催されたこの会議は、この組織が1927年に発足してから2回目の会議だった。この会議にはジャワ人青年だけでなく、東インド各地に結成された青年組織(青年スマトラ同盟、青年アンボン)やムスリム青年組織、そしてオランダから帰国した留学生たちも加わった。永積昭、1980年、254-261頁。, この点、オランダ政府も2005年に至り、インドネシアの独立日が1949年12月27日ではなく、1945年8月17日であることを認める表明を行った(, 首藤、同、149頁。なお、ハーグ協定ではオランダ女王の首長としての地位は象徴的なものとされ、オランダ政府にも具体的な権限はなかった。, プルメスタ(Permesta - Perjuangan Semesta = 全体闘争)は西スマトラを中心にした反中央政府運動。, スカルノが国連脱退を決意した直接の原因は、1965年1月からマレーシアが国連安保理非常任理事国になることが決まったことへの不満が挙げられる。インドネシアの国連脱退は、中国、, 永井、1986年、381頁。白石隆「国軍 -その世代交代と変貌- 」、安中・三平編、同上書、106-107頁。, 大形利之「ゴルカル -スハルトと国軍のはざまで- 」、安中・三平編、同上書、146-152頁。, 高橋奈緒子ほか著 『東ティモール 奪われた独立・自由への闘い』、明石書店<明石ブックレット7>、1999年, en:Japanese occupation of the Dutch East Indies, http://www.thejakartapost.com/news/2005/08/18/dutch-govt-expresses-regrets-over-killings-ri.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=インドネシアの歴史&oldid=76476144, われわれインドネシア青年男女は、インドネシア国というただ一つの祖国をもつことを確認します, われわれインドネシア青年男女は、インドネシア民族というただ一つの民族であることを確認します, インドネシア国立文書館(編著)、倉沢愛子・北野正徳(訳) 『ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代』、, イ・ワヤン・バドリカ著、石井和子監訳、桾沢英雄・菅原由美・田中正臣・山本肇訳『世界の教科書シリーズ20 インドネシアの歴史-インドネシア高校歴史教科書』明石書店 2008年. Rineka Cipta. 7 0 obj
<>
endobj
"Y��"`����������d&��Hm�i��J`�Q0�D���� �[�$s
�4�,�D)�,� D���Q �f�]`� X�/����§��Bo&�女�a`%��30%_0 A�
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 本ブログにおいて、一部他のサイトより転載した写真・画像を使用している場合があります。そのような写真・画像については転載元を明記していますので、何かありましたらそちらにお問い合わせください。特に明記がない場合は、筆者が撮影したものとなります。. 1997年アジア通貨危機の煽りを受け、また30年間続いたスハルト独裁政権への国民不満が爆発した日。1998年5月12日にジャカルタのトリサクティ大学で反政府デモを行っていた学生に対し、治安部隊が発砲、4人が亡くなったことに端を発した1998年5月暴動(ジャカルタ暴動)が激化した日。, そして、当時のジャカルタ日本人学校児童生徒・教職員が学校で一晩を明かす臨時宿泊をした日。, 当時学校に泊まった850余人の児童生徒の一人として、そして今再びジャカルタで生活している筆者が想うことを、節目として記事に残します。, 当時の概略は以下を参照してください。暴動のバックグラウンドについてはそれだけでいくつも記事が書けてしまいそうなので。, お母さんは忘れない 5月暴動から15年 (2013年05月14日)(じゃかるた新聞), さて1998年当時。筆者はジャカルタ日本人学校に通う小学校低学年の児童でした。まだ年端もいかない子供だったため、インドネシアで時代が変わろうとしていたことなど、気に掛けることもありませんでした。, もっとも当時の大人、自分の両親や学校の教職員の方々はその限りではなかったと思います。すでに廃版となっているようですが、数年後筆者が当時を思い起こすのに役立った一冊の本があります。2000年に発刊された、阿保和宏さんという方がまとめた『緊急一斉下校―ジャカルタ発 ジャカルタ日本人学校体験記』という本です。, この本では当時の大人たちが、どのようにしてこの危機に対処したか、体験談がまとめられています。全校生徒千数百名のうち、危険を察知したいくらかの児童生徒の家族は早々と日本に帰国していました。, 筆者はというと、父親が転職して現地企業に勤めており、仕事もあるためジャカルタに滞在したままでした。, 5月14日も、いつも通り登校し、午前中の授業を受けていました。そしてお昼休みの前後だったでしょうか。先生方が幾分慌ただしくなり、ほどなく校内アナウンスで緊急一斉下校が告げられます。, スクールバスに乗り込みしばらく進むも、現在のBintaro Plaza近辺で暴徒に遭遇したため学校へ引き返すことに。学校に戻ったのが昼の2時頃だったでしょうか。, さすがにただならぬことが起きていると子供ながらに気付き、教室に戻ってから普段はつけてはいけないと言われていたテレビを付け、同じように学校に戻っていた何人かの同級生とローカルニュースを観てみます。ニュースでは炎上する建物や、転がり燃えている車、そして暴徒の様子が映し出され、そこで初めて今ジャカルタで何が起きているかを知りました。, 恐怖で泣き出す児童もいましたが、自分はどこか遠い場所の出来事であるかのような感覚でした。ついさっき暴徒に遭遇したというのに、まだ現実を掴みかねていたのだと思います。, それから続々と、同じように帰路途中で暴徒に遭遇し、学校に引き返してきた同級生がいました。ただ実際、この時何台かのスクールバスは強行突破を試み、無事自宅まで送り届けることが出来たという話も聞きました。, それからどう過ごしたかは正直覚えていません。恐怖のようなものはあまり感じていなかったです。それより日が落ちて夜になるにつれて、「友人と学校に夜までいる」という非日常的体験に、逆に昂揚していました。, 夕食と言っても、塩むすびが2つ、それにクッキーと、水という本当に非常食のようなものでした。塩むすびは、職員の方が必死に近くの店へ米を買いに行き、当時の最上級生である中学3年生が家庭科室で握ったものでした。それを低学年から順に配っていったそうです。, 夜になっても暴動は治まらず、一向に帰宅できる目途が立ちません。自分は友人とオセロをして過ごしていましたが、深夜12時前になって先生から教室で寝るようにとお達しを受けます。たしか、体操で使う用のマットを教室の床に敷いて寝ました。, 後になって聞いた話ですが、この時いくつかの会社は自社の駐在員の子供だけを連れて帰ったり、あるいは親が学校まで来て一緒に泊まったということもありました。, まだ陽も昇らないうちに先生に起こされます。「帰るから用意して、すぐバスに乗りなさい」と。, 暴動が収まっている夜明け前のうちに、送り届けてしまおうという計画でした。前日とは違い、すべてのバスに先生や教職員が同乗します。, そしてようやく空が白みだした5時半頃、自宅に着きました。両親に出迎えられたのを覚えています。, 臨時宿泊から1週間後、ようやくフライトが取れたので日本に帰ります。この頃には街の様子も大分落ち着いていました。到着した成田空港でテレビの取材を受け、「学校に泊まれて楽しかった」と無邪気に答えたことは今でも忘れられません。おそらくテレビ局の人は「怖かった」とかそういうコメントが欲しかったのだと思います。(ちなみにそのままオンエアされたそうです), 学校は一時閉鎖。筆者は日本の母方の実家に身を寄せ、日本の小学校に体験入学をしていました。ジャカルタ日本人学校が再開したのは6月10日のことでした。, 登校初日。30人程度いたクラスは、数人しか出席していません。全校生徒でも150人程度しか出席していなかったそうです。そのまま本帰国した児童生徒も多く、暴動前は千数百名いた生徒数も半分の600人程度まで減りました。別れの挨拶もできずに離れてしまった同級生も数多くいました。, ちなみに翌年1999年も民主化に伴う総選挙があり、1か月程度学校閉鎖がありました。この時は父方の実家に身を寄せ、これまた体験入学をしていました。余談ですが、さらに翌2000年も、今度は父の体調が悪化し、またまた体験入学をしていました。3年連続で違う場所で体験入学という稀有な体験でした。, ジャカルタ日本人学校でもこの出来事をきっかけに、様々な教訓が出来ました。その一つが「学期初めにバスタオルを持参し、教室に保管しておく」ことでした。臨時宿泊に際し、毛布や布団もなく固い床で寝ることになりました。ならばせめてその代わりにと、各個人がバスタオルを持ち込むおうになったのです。筆者が卒業するまでこの習慣はありましたが、現在でもあるかどうかは知りません。, 歳を重ね、当時何が起きたかを知るにつれ、「実は自分が時代が変わる瞬間に立ち会っていて、それを身をもって体験したのだ」という自負のようなものが生まれるようになりました。, それと同時に、「当時は自分が幼すぎて、何が起きたかを十分に把握できていなかった。あの激動の時を、大人として過ごしてみたかった」という想いも生まれました。, 強烈な原体験を元に、そして時代が変わる瞬間に今度は大人として立ち会えないかという想いを抱き、筆者は再びジャカルタに戻ってきました。, 20年を経て、筆者もインドネシアも大きく変わりました。それでも当時は華僑が狙われ、今なお異教徒が狙われるテロが発生しています。つい昨日も、スラバヤで教会を狙ったテロが起き、犠牲者が出ました。実行犯は子供を含んだ家族だったそうです。, 子連れの母親が自爆 スラバヤで同時多発テロ 3教会で爆発 13人死亡、43人負傷 (2018年05月14日)(じゃかるた新聞), ただ個人的には、これらのテロと1998年ジャカルタ暴動は意味の異なる出来事だと思っています。暴動や殺人を正当化するつもりはありませんが、独裁政権で抑圧された時代から民主化を夢見て動いた末に起きたことと、民主化し平和を目指しているのに宗教的に相容れないという理由で異教徒を標的とするテロは、全く別のものではないでしょうか。, 民主化し、ユドヨノ政権となってからのインドネシアは目を見張るような発展を遂げました。そして今、日本企業主導によって急ピッチでMRTが作られています。目抜き通りで工事をしているので、世界最悪とも言われる渋滞を引き起こしていますが、都市のインフラが一から作られていく様を毎日眺めることが出来るには、これもまた時代が変わる瞬間に立ち会っているとも言えるのではないでしょうか。, 1998年暴動のように、一瞬で時代が変わる瞬間はもう訪れないのかもしれません。それでも日々様変わりする都市で、理不尽なことが起きることもあるけれども、実は温和なインドネシア人と仕事ができることを嬉しく思います。楽しく、刺激的な毎日を過ごしています。, そして今後万が一、あの時のような強烈な時代の変化に立ち会える時が来たら、その時は大人として起きていることを一身に享受し、後世に伝えていければなと思います。, Dari manaとはインドネシア語で「どこから来たの?」という意味です。どこの国でも、外国へ行って外国人と話すと、まずこのフレーズを耳にします。詳しい自己紹介はこちら。, 現在インドネシアのジャカルタ在住。インドネシアや海外旅行のお役立ち情報を発信していきます。. インドネシアの生活 2018.05.14 2019.07.19 ダリマナ. ジャカルタの雰囲気がどんな感じか知りたい方は「ヤンティのジャカルタ観光!大規模デモ中の治安は大丈夫?」を読んでみてください。 在住者が語る!2019年のジャカルタの治安は悪い?駐在前の最終チェック ホテルは安く、でも安全な endstream
endobj
startxref
これは1998年のジャカルタポストの1面です。当時日本の新聞やテレビでも報じられたのでご存知の方も多いかと思いますが、スハルト大統領を退陣に追い込んだ民主化運動です。 Taufik Makarao, Moh. Jakarta. インドネシア史(インドネシアし)では、インドネシアの歴史について述べる。 大まかに分類しても70余の民族が居住する多民族国家であるインドネシア共和国に国のまとまりが生まれたのは比較的新しく、狭義のインドネシア史は第二次世界大戦後の独立時代に過ぎない。 そのようにして対外政策が進んでいるあいだにも、インドネシア国内の経済状態は悪化し、インフレによる物資高騰は民衆の生活を苦しめた。, こうした状況に国軍主流派や一部の政党政治家、経済テクノクラートらは危機感を強め、スカルノと共産党に対する不満が高まっていった。このように緊張した政治環境の中で発生したのが9月30日事件だった。この事件は、1965年9月30日深夜から翌未明にかけて、共産党シンパの国軍部隊と、共産党傘下の組織が国軍幹部の6将軍を殺害したことに端を発する。陸軍戦略予備軍司令官だったスハルトがこれをすぐに鎮圧したため、左派勢力による政権奪取は失敗し、クーデター未遂事件として終わった。共産党に肩入れしていたスカルノは苦しい立場に追い込まれ、事態を回復するための一切の権限をスハルトにあたえることになった。これを受けてスハルトは共産党員およびそのシンパを殺害、拘束し、国内の左派勢力を物理的に解体した。東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党が壊滅したことは、国内政治のみならず、冷戦期におけるこの地域の勢力図を一変させた。 1998年ジャカルタ暴動を経験した筆者が、20年経った今想うこと。 1998年5月14日。 1997年アジア通貨危機の煽りを受け、また30年間続いたスハルト独裁政権への国民不満が爆発した日。 ジャカルタ暴動で7人死亡、442人を拘束 会員限定有料記事 毎日新聞 2019年5月23日 19時18分 (最終更新 5月23日 19時19分) インドネシア 43 0 obj
<>/Filter/FlateDecode/ID[<5E88E67DBE3D5946A7D0AFEAF227B335>]/Index[7 83]/Info 6 0 R/Length 151/Prev 304036/Root 8 0 R/Size 90/Type/XRef/W[1 3 1]>>stream
0
h�bbd```b``6��`�!�d� Cet.9. ジャカルタの雰囲気がどんな感じか知りたい方は「ヤンティのジャカルタ観光!大規模デモ中の治安は大丈夫?」を読んでみてください。 在住者が語る!2019年のジャカルタの治安は悪い?駐在前の最終チェック ホテルは安く、でも安全な場所で Sumatera No. Abdulkadir Muhammad. http://www.arowana.jp/. ラフレシアオリジナルのエコバッグを制作致しました。レジ袋が有料化になって、いつもコンビニで袋忘れた!ってなってたのがきっかけです。スーパーで買い物するのは小さいですが、コンビニでの買い物には丁度いいサイズにしました。横20cm x 高20cm x 奥行き10cm(折りたたんだ大きさは、横[...], しーさんとリッグアッガイさんにラフレシア店内の動画を撮影して頂きYoutubeにアップして頂きました。珍しく顔出しで色々お話したので少し上がってますが是非ご覧ください。↓ブログランキングに参加しています。下記バナークリックで多くの方のアロワナブログをご覧いただけます。[...], 2006年に発売になったプラタパッド。表紙を飾ったのはアクアリーダーで産まれた3匹のアルビノとヘテロ達でした。当時アルビノの出現数は世界でも数少なく、この個体達を入手する事から僕のアルビノ繁殖計画は始まりました。今では考えられない位の価格で、アロワナマニアさん2人とラフレシアで計3匹[...], 新型コロナウイルスの感染拡大に備える緊急事態宣言発令を受け、下記の様に営業時間を短縮させて頂きます。期 間:4/10(金)~ 5/6営業時間:12:00~19:00 (通常 12:00~20:00)定休日:毎週 月曜日*通販等は通常通り行っておりますが、一部商品に欠品が出始[...], GEXよりワイルドワームが発売となりました。アメリカミズアブの幼虫を乾燥させた物ですが、変な匂いもなくラフレシアで在庫している個体も比較的良く食べてくれました。軽いオヤツなどには丁度いい感じで、稚魚にはサイズもベストサイズです。1袋70gと軽い感じがしますが、乾燥で水分を飛ばして[...], 当時日本の新聞やテレビでも報じられたのでご存知の方も多いかと思いますが、スハルト大統領を退陣に追い込んだ民主化運動です。民主化運動って書くと聞こえがいいですが、新聞のトップにも書かれている”RIOT”。まさにインドネシア国民の大暴動でした。あちこちで放火や略奪、殺人などの犯罪が行われていました。, この時僕はアロワナを選別しにインドネシアに渡航中でした。国内情勢が不安定なのは知っていたのですが、2~3日でアロワナを選ぶ位の時間はあると考えていました。「すぐ選んですぐに帰って、すぐ輸入してしまえば間に合うだろう。」って単純に考えたんです。そしたら、運悪く着いてアロワナを選んだ次の日に大暴動に巻き込まれました。, ジャカルタには戒厳令が敷かれ、市内の道路は軍によって全て閉鎖され外出禁止になりました。街には機関銃を持った軍人と戦車と装甲車。ホテルで朝起きて窓の外を見たら、あちこちのビルが燃えていました。しまいには泊まっていたホテルにも放火されたり襲われたりとそれこそ、映画でも見ている様な感じでした。, ホテルの2階にあった結婚式場にテーブルと椅子でバリケードを作り、多くの人達と息を潜めました。20年も前ですが当時インドネシアの携帯を保有していて日本大使館に助けを求めました。しかし、大使館からは「迎えに行ける状況ではないので、大使館まで来てください」との返答でした。結局大使館にも行けず、頑張ってホテルから抜け出してパスポートを高く掲げて「ORANG JAPAN! 89 0 obj
<>stream
Penerbit PT Citra Aditya Bakti. �(a マラリ事件(マラリじけん)は、1974年1月、田中角栄 首相がインドネシアを訪問した際に、首都ジャカルタで発生した暴動である。 この「マラリ」とは、インドネシア語の「Malapetaka Limabelas Januari(1月15日の災難)」の略称である。 暴徒たちは、日系企業がインドネシアのスハルト大統領側 … いつも多くのクリックありがとうございます。皆様のクリックが次のブログの原動力になっております。, 12:00~20:00 1824年に英蘭協約を締結したが、この条約がアチェ戦争(1873年-1913年)の導火線となり、オランダが勝利してスマトラ島の支配権も確立し、ポルトガル領ティモール(現東ティモール)を除き東インド諸島はすべてオランダ領とするのは20世紀に入ってからとなった。, 20世紀初頭にオランダは従来の植民地政策を転換し、現地住民の福祉向上と、本国から植民地政府へ権限委譲をすすめる方針をとった。前時代の純益政策によって、植民地からオランダ本国に莫大な富がもたらされた一方で、過酷な搾取と「愚民化政策」のもとで、現地住民による初等教育の機会や産業の復興が制限され、その結果植民地の現地住民の窮乏化がすすんだことを反省し、これまでより多くの恩恵を現地住民にもたらすことで、植民地における経済の復興を目指すという意図で始められたのが「倫理政策」と総称される一連の施策である。, これによって、現地住民には初等教育の機会があたえられ、また、親オランダ的な一部の住民エリートの子弟には、オランダ語での専門教育(行政学、経済学、医学など)の機会もあたえられた。彼らの多くは、植民地政府の末端を担う下層行政官や、現地住民の福祉向上を担う医師となって、オランダ人の下で植民地統治の運営の一翼を担った[10]。しかし、これらの一部の親オランダ的なエリートを除く現地住民は、その後も初等教育以上のものを受ける機会は与えられなかった。, そのようにしてオランダ語で教育され、東インドに創設された大学や留学を許されたオランダ本国の大学で学んだ、親オランダ的な一部の学生たちのなかから、民族の独立を志す者たちがあらわれた。その最初期には、ジャワの医学校で学ぶ学生たちを中心に、1908年に結成されたブディ・ウトモ(ジャワ語で「至高の徳」を意味する)のように、教育を通じてジャワ人の社会的地位を向上させようという、穏健な活動がはじめられた[11]。また宗主国オランダでも、東インド出身の学生たちが東インド協会 (Indische Vereniging) を結成し、出身地方の枠を超えた東インドの民族的一体感に目覚めていった[12]。, 1911年に結成されたサレカット・イスラーム(イスラム同盟)は、当初は中国革命の進展によって東インドでの商業活動をにわかに活発化させた華僑商人に対抗して、ジャワのバティック商人が結成したものであったが、組織の主導権が商人層からオランダ語で教育を受けた知識人層に移ると、ジャワ島外にまで支部を結成して、東インド全体に広がる最初の大衆組織となった。サレカット・イスラームの指導者チョクロアミノト(英語版)は各地で集会を催し、熱気のこもった演説とカリスマ性で熱狂的な人気を博した[13]。, 第一次世界大戦を経て、サレカット・イスラームの会員数は200万人をこえ、独立と社会主義を掲げるようになった。このように組織の性格が変わった要因として、ロシア革命の成功も挙げられよう。1920年にはアジア初の共産党としてインドネシア共産党(前身は1914年にスマランで結成された東インド社会民主主義同盟)が成立し、コミンテルンに加盟した。インドネシア共産党は原住民党員をサレカット・イスラームに加入させ、その組織内部で共産党の影響力を強めていくという方針を立てた[14]。その結果、サレカット・イスラーム内の主流派と共産派の対立が激化し、民族主義運動の潮流は分裂し、大衆の運動離れを招いた[15]。サレカット・イスラームから排除されたインドネシア共産党は、その地方支部が1926年から1927年にかけて散発的に起こした武装蜂起によって、植民地政府による弾圧を招いた。党の指導者は海外へ逃亡するか、東インドに潜伏するなどしたため、以後の民族主義運動は、スカルノらが1927年に結成したインドネシア国民党など、世俗主義を掲げる民族主義団体によって担われていくことになった。, 戦前のインドネシア民族主義運動の頂点となったのは、1928年10月27日に開催されたインドネシア青年会議における「青年の誓い」採択だった[16]。, ここにいたって、独立を求める人々は、オランダ領東インドの国名として、「インドネシア」の名を選び取り、この地域に住むさまざまな民族をインドネシア人として統一し、独立を達成する、という決意を内外に示したのである。, 太平洋戦争(大東亜戦争)最中の1942年2月、日本軍の侵攻によってオランダの植民地支配は崩壊した。東インドを占領した日本は、日本陸軍の今村均中将により全域を軍政支配下に置いた。石油をはじめとする天然資源の確保のため、軍政に現地住民の協力をとりつける必要があったこともあり、今村中将による軍政下ではインドネシア人に対する緩和政策を基本とし、大東亜政略指導大綱にもとづき東インドを大日本帝国領土とすることが決定された[要出典]。, そのため、オランダによって捕らえられ、流刑先にあったスカルノやハッタらの民族主義運動の指導者を解放し、またナフダトゥル・ウラマーなどイスラーム系諸団体の宗教指導者らに協力を要請し、彼らの指導力を利用して、物的・人的資源の調達をはかろうとした。一方の民族主義運動の指導者たちも、軍政当局によってあたえられた地位を活用して民衆に語りかけ、その民族意識を鼓舞した[要出典]。そうした活動によって、スカルノらは民族の指導者としての地位を確立していった。, これに併せて日本は、オランダ支配下で迫害されていたイスラム教の存在を認め、イスラム教徒による活動を自由化した他、オランダが行っていたオランダ語による初等教育、高等教育に変わって、インドネシア語と日本語による教育を行った[要出典]。, 1942年4月、日本は、それまでオランダ領東インドで設置されていた人種別の複数種類の第一審裁判所のうち地方裁判所(Tihoo Hooin(地方法院)=Landraad)のみを残して一本化し、他は廃止した[17][18]。欧州人専用の訴訟法も無効となった[19]。, また、軍政当局は東インドにおける兵力不足を解消するために、兵補や郷土防衛義勇軍を設立して、現地住民の子弟たちに軍事教練を施した。その訓練は苛烈を極めたが、これらの軍事教育を受けた青年たちが、次の独立戦争でオランダと戦うインドネシアの軍事組織の将校団を形成していくことになった[要出典]。, インパール作戦の失敗によって戦況が悪化すると、日本はインドネシアの独立を認める方針に変更した。それまでは大東亜会議にインドネシア代表を招かないなど帝国領土への編入を前提とした方針をとっていたが、1944年9月にはインドネシア国旗の掲揚と国歌の斉唱を解禁した他、1945年3月には独立準備委員会を発足させた。同委員会は同年8月19日にスカルノとハッタ、ラジマンによって独立宣言するという方針を決定し、軍政当局や日本政府もこれを承認した[要出典]。, しかし、1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同月17日にジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地のスカルノ邸の前でインドネシア独立を宣言し(独立宣言文の日付は皇紀を用いている)、スカルノが大統領に選出された。独立宣言は他民族によるインドネシアの民族および国に対するあらゆる形の植民地支配から独立し、自由になることの声明であった。[20], 1945年8月18日、インドネシアは憲法を制定・公布・施行し、その経過規定第2条において、日本軍政期に有効であった法制度は引き続き有効である旨規定された[21]。いいかえると、日本軍の侵攻前のオランダ領東インドの法制度に戻ることはなかった[22]。, しかしオランダはこの独立宣言とスカルノの大統領就任を無効とし、独立を目指すスカルノやハッタらの民族主義者やブントモらの軍人と、日本軍の武装解除を行ったイギリス軍、および植民地支配再開を願って戻って来たオランダ軍の間で4年にわたってインドネシア独立戦争が展開された。, 戦前のオランダによる峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高く、刀剣、竹槍、棍棒、毒矢、罠などの武器の他、降伏後に日本軍が去ってオランダやイギリスの管理下に置かれた兵器庫から奪ったり、降伏を潔しとしない日本軍人の一部が横流しした武器・弾薬で武装し、様々の手段で連合軍を苦しめた。なお独立派には、日本軍政下で独立派への軍事教練を行っていた日本軍人が2000人加わり、訓練や教育、宣撫に活躍し、その半数は戦死したものの戦闘に参加した者もいた。, この戦争の結果、疲弊消耗の極に達したオランダ軍はようやく再植民地化をあきらめ、1949年12月国連の斡旋でデン・ハーグで行なわれたオランダ-インドネシア円卓会議(英語版)(通称、ハーグ円卓会議)によりオランダは正式にインドネシア連邦共和国 (Republik Indonesia Serikat) 独立を承認した。, 1949年12月27日、ハーグ協定の署名式がおこなわれ、この日に主権はオランダからインドネシア連邦共和国に委譲された。この連邦共和国は、16の国・自治地域から構成され、各構成国・自治地域は以下のとおりである:インドネシア共和国、東インドネシア国、パスンダン国、東ジャワ国、マドゥラ国、東スマトラ国(インドネシア語版、英語版)、南スマトラ国(インドネシア語版)、中部ジャワ自治国、バンカ自治国、ビリトン自治国、リアウ自治国、西カリマンタン特別地域(インドネシア語版)、大ダヤク自治国(インドネシア語版)、バンジャル地域(インドネシア語版)、東南カリマンタン(インドネシア語版)、東カリマンタン(インドネシア語版)[23]。そのうちインドネシア共和国は、ジャワの約半分とスマトラの大部分を有し、人口でも、連邦共和国全体で4600万人のうち、3100万人を占めていた[24]。, インドネシア共和国以外の構成国の多くは、独立戦争のさなかにオランダが自らを利するために現地支配者層と結んで作った傀儡国家であった。しかし、独立戦争末期にはこれらの諸国でも「オランダ離れ」がすすんでおり、政治指導者たちのあいだでも、オランダよりもインドネシア共和国と協調したほうが現実的であると考えられるようになっていた[25]。自治国の一つだったパスンダン国のバンドンで、元蘭印軍大尉ウェステルリンク(英語版)の私兵Legioen van Ratu Adil(APRA)が破壊活動をおこなうなどの逆行する流れもあったが(en:APRA Coup d'état)、1950年1月、このパスンダン国は解散し、共和国に合流した。同年3月には他の11国がこれにならい、最終的には同年8月15日、連邦共和国は解散されて、残りの国もふくめた単一のインドネシア共和国が発足した[26]。同日にインドネシア共和国暫定憲法(以下、1950年憲法と略す)を公布・施行し、議会制民主主義のもとで国政を運営していくことになった。, なお、ハーグ協定によって、インドネシア連邦共和国とオランダは、オランダ女王を首長とするオランダ・インドネシア連合(オランダ語版) (Uni Belanda-Indonesia) を形成すると規定されていたが、1951年1月にはインドネシア国民党をはじめとする諸政党が連合破棄をもとめ[27]、1954年8月、このオランダとの連合国家の解消が宣言された。, 1956年にはハーグ協定を正式に破棄して、西側に属するオランダと決別し、非同盟中立国家として歩むことを目指した。さらに1957年12月には、植民地時代から蓄え続けていた自らの利権を死守すべくインドネシア国内に残っていたオランダ人を追放した。, インドネシアは、オランダによる地域の統合をそのまま引き継いだ為、民族や文化に統一的なアイデンティティを求めることは難しかった。1955年9月29日に実施されたインドネシアでの国民議会議員選出の最初の総選挙(および12月15日の制憲議会議員選挙)には、さまざまな支持母体をもつ政党が参加し、3900万人以上のインドネシア国民が投票を行った。その結果は、インドネシア国民党、マシュミ、NUナフダトゥル・ウラマー党、インドネシア共産党の4大政党が票を分け合い、複雑な政治的対抗軸を形成した。民族・宗教・イデオロギーを異にする政党同士に妥協の余地は少なく、議会は空転し、この時期の内閣はいずれも短命に終わった[28]。, また、独立戦争期をとおして、行政や国軍の内部では権力の分散化が進み、中央政府あるいは軍中枢からの統制は、かならずしも地方に及んでいなかった。イスラーム国家の樹立を目指すアチェ州のダウド・ブルエの反乱は独立戦争のさなかから1965年まで続き、西ジャワのセカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨのダルル・イスラーム運動(英語版)(1962年銃殺)、南スラウェシ州のカハル・ムザカル(英語版)の反乱、そして1956年から1958年まで続いた西スマトラのプルメスタの反乱(英語版)[29]など、インドネシアは国家分裂の危機に瀕していた。, この当時のスカルノは、1955年に開催された第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)を主催するなど、国際政治の場面では非同盟諸国のリーダーとして脚光を浴びていたが、国内政治においては、大統領に強大な権限をあたえない1950年憲法のもとで、リーダーシップを発揮できない状態にあった[30]。, 議会制民主主義の機能不全や、政党政治家たちの腐敗を目の当たりにして、スカルノは国軍司令官スディルマンの協力を得て、1959年7月、制憲議会の解散と、大統領に強大な権限をあたえる1945年憲法への復帰を宣言した。, 1945年憲法を復活させたスカルノが、自らのリーダーシップを維持しようとしていたこの時期、さかんに唱えていたのが「ナサコム NASAKOM」というスローガンである。これは民族主義 (Nasionalisme)、宗教 (Agama)、共産主義 (Komunisme) の各勢力に支持を訴え、挙国一致して国難を乗り切ることをめざすものであった。, 「民族独立の父」としての地位、民衆を熱狂させたという弁舌の才とカリスマ性をもちながら、スカルノは自らの特定の支持基盤をもっていなかった。また、独立後から内紛を続けてきたインドネシア国軍は、ナスティオンらによる合理化によって組織の求心力を高めることに成功しつつあり、スカルノにとって国軍は政治的脅威をあたえる存在となっていた。これを牽制するために、スカルノはインドネシア共産党に接近し、その大衆動員力を頼りにした。国軍と共産党は対立関係にあり、スカルノはその両者の調停役としてふるまうことによって、みずからのリーダーシップを維持しようとした。, 1961年12月、オランダの植民地として維持されていたニューギニア島西部(イリアンジャヤ)に「西イリアン解放作戦」として空挺部隊を派遣し、オランダとの戦闘の挙句これを占領した。国際連合の調停の結果停戦し、国連の暫定統治の後、1963年5月、その施政権がインドネシアに移管された[31]。この併合に反対する自由パプア運動やen:National Committee for West Papuaがインドネシア政府に反旗を翻し、パプア紛争(1963年–現在)が起こった[32]。, また、1963年にマラヤ連邦が北ボルネオ(現在のサバ州)をイギリスから譲り受けてマレーシアが建国されると、スカルノはこれをイギリスによる新植民地主義のあらわれであると非難し、「対決政策」を宣言した。インドネシアは「マレーシア粉砕」をスローガンに掲げて、マレーシア領へ侵入するなど、一触即発の事態となった。翌年に領有を主張するフィリピンも含めた3者が東京で会談するなどの外交的解決が模索されたが、最終的に現状維持で決着するには後述のスハルトの政権掌握を待たなければならなかった。, この対決政策によって、インドネシアはアメリカ合衆国とIMFからの経済援助を停止され、国際社会から孤立していった。スカルノは急速に中国に接近する。