スカルノ大統領には何人か愛人がおり、第1夫人:ファトマワティ、第2夫人:ハルティニ、 第3夫人:デヴィ夫人 など他にも多数いたみたいです。 第1夫人であるファトマワティ夫人の写真はこちらです。 スカルノ(Sukarno、旧正書法ではSoekarno、1901年6月6日 - 1970年6月21日)は、インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である。, Sukarnoでフルネーム。独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は不遇の晩年を送ったが、いまなお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父(建国の父)として敬意をもって愛され続けており、現在再び紙幣(最高額面の10万ルピア)に肖像が使われている。, オランダが長年植民地として支配していたジャワ島東部の都市スラバヤ生まれ。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥー教徒だった。名前の「スカルノ」は、ジャワのワヤン劇(インドの古代叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』に基づいている)に登場する武芸の達人「カルノ karno[1]」(ガウォンゴ国王スルヨプトロ)に由来。ここから「S.Karno」と署名した事もあったという。, 幼い頃からオランダ語を学び、原住民学校を卒業した後、ヨーロッパ人子弟の通う小学校を経て、スラバヤの高等市民学校(HBS)に入学。同校を1921年に卒業後、植民地の宗主国オランダが1920年にバンドゥンに創設した高等工業学校(現バンドゥン工科大学、バンドン工科大学)に入学。1926年5月に卒業している。, 大学卒業とともに、本格的にオランダに対する反植民地運動を開始する。1927年7月4日、オランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党(Partai Nasional Indonesia、略称PNI)を結成。インドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められるようになった。, 1929年12月にオランダ植民地政府に逮捕されて禁固刑を受けたが、1931年2月、恩赦をあたえられて出獄。しかし、1933年8月にはふたたび逮捕され、フローレス島のエンデに、続いて1938年2月スマトラ島のベンクルに流刑となった。この流刑地となったベンクルでは、後に第1夫人となるファトマワティと出会い、結婚している。, 1939年に第二次世界大戦が勃発し、1940年にオランダ本国がドイツに占領され政府はイギリスへ亡命したが、その後もオランダ植民地政府による植民地支配は続いた。その後1941年12月に太平洋戦争が始まると、アメリカ領フィリピンやイギリス領マレー半島から宗主国の軍隊を放逐した日本軍が、またたくまにオランダ領東インド全域(=インドネシア)からオランダ軍を放逐し、オランダ植民地政府とその軍隊はオーストラリアに逃げることとなった。, その後すぐに第16軍司令官である今村均は、オランダ植民地政府に囚われていたスカルノやハッタらを解放し、今村はインドネシアの民生の安定のために知名度の高いスカルノやハッタらの民族主義者の協力を要請した。他方のスカルノらもまた民衆総力結集運動を組織し、インドネシアの独立のために日本軍に協力し、イギリス軍やアメリカ軍、オランダ軍をはじめとする連合国軍と対峙することを選択した。, 1943年にはハッタとともに日本を訪問し、昭和天皇と面会するなど日本との関係を強めていくとともに、インドネシア独立への道筋を作っていった。またその後もインドネシアの殆どの地域は戦禍に巻き込まれることがなく平穏な状態が続いたものの、日本はその後イギリスやアメリカ、オーストラリアなどを中心とする連合国軍に対して各地で劣勢となっていき、1945年8月15日に敗戦へと追い込まれる。, 日本が連合国に対して降伏してから2日後の8月17日、オランダ植民地政府が逃亡したままという権力の空白をぬった形でスカルノとハッタの2人が「インドネシア国民の名において」インドネシアの独立を宣言した。, しかし、これを認めないオランダはイギリスやオーストラリアなどの助けを受けて軍を派遣し、同地の再植民地化に乗り出した。戦局はオランダ優位に進むかに思われたが、オランダは本国が戦火に見舞われた上にドイツに占領されていたこともあり国力が低下していた上に、日本軍が放置していった兵器と残存した一部日本軍将兵の助けを受けたインドネシアの武装勢力(正規軍・非正規軍を問わず)とのゲリラ戦に苦しめられた。, なお、オランダを支援しようとしたイギリスもオランダと同じく国力が低下していた上に、インドやマレー半島などのアジアの植民地における独立運動が活発化していたため、オランダを支援するだけの余力は残っていなかった。, さらに、インドネシアを再植民地化しようとするオランダへの国際的な非難も高まったため、外交交渉による紛争の解決がはかられた(インドネシアとオランダの戦争については「インドネシア独立戦争」の項を参照)。スカルノ自身は、1948年12月のオランダ軍による臨時首都ジョクジャカルタ侵攻のさなか、オランダ軍によって逮捕されており、バンカ島に幽閉されていたが、1949年12月のハーグ協定の締結によって、インドネシアはオランダから主権委譲を受け、独立国家としての第一歩を踏み出すことになった。, オランダからの独立を達成し、宗主国であったオランダのみならず、アメリカやイギリス、フランスなど世界各国からの国家承認と援助を受けて独立国家としての一歩を踏み出したものの、オランダ植民地時代からの「負の遺産」を多く抱えたその後のインドネシア、そして大統領となったスカルノの前途は多難を極めることとなった。, 1945年8月以降の対オランダ独立戦争期を通してオランダ植民地政府が執った、インドネシア独立運動各勢力の分裂工作の影響を受けて、国内統治機構は中央においても地方においても権力が分散しており、独立後に成立した諸政権による政治運営はいちじるしく困難をきわめた。, さらに独立後より大統領職にあったスカルノは、オランダからの独立時に急ぎ採用された新憲法(1950年憲法)のもとでは強い権力を付与されておらず、リーダーシップを発揮できない状況にあり、インドネシア国民は困難な国政運営に対して有効な手立てを打てない政党政治家たちへの不信、不満を強めていった。, このような政局の混乱を収拾するべくして行なわれた同国初の総選挙(1955年)におけるスカルノの勝利、そしてその結果を受けて実施された議院内閣制によっても、事態は打開されなかった。インドネシアは、オランダによる過酷な植民地支配からの脱却を勝ち取った末の民族の統一を目指すはずが、現実には国家分裂の危機へと向かっていた。, こうした事態を収拾するためにスカルノが1950年代末頃から打ち出したのが「指導される民主主義」の構想である。これは、混乱の原因とされる議会制を停止し、スカルノが国内諸勢力の調停者として国家を指導するというもので、独裁化という危険をはらむものであったものの、混乱する政局に嫌気がさしていた国民の間にも支持者が拡大した。, この様な支持の増大を受けて、1959年7月5日にスカルノは議会を解散し、スカルノの行動を制約していた1950年憲法を停止して、強大な大統領権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。, これに先立つ1955年には、ジャワ島西部の都市バンドゥンにて第一回アジアアフリカ会議(バンドゥン会議)を主催し、インドやフィリピン、中華人民共和国など、第二次世界大戦後に続々と独立を果たした、もしくは建国された新興国、いわゆる「第三世界」のリーダーの1人として脚光を浴び、会議を成功に導くなど、国際社会での知名度を高めた。, なお、かつて親密な関係を持っており、第二次世界大戦戦後急速に復興を進めていた日本は、アメリカやイギリスと同じ西側諸国の一国となったものの、その後も一貫して政府借款や企業からの投資を受けるなど経済面を中心に引き続き親密な関係を続けていくこととなった上に、その後日本人の妻(第3夫人)を娶ることとなる。, 冷戦下の1950年から1965年にかけてのスカルノ政治のキーワードの1つが「ナサコム(NASAKOM)」である。これは「ナショナリズム(Nasionalisme)、宗教(Agama)、共産主義(Komunisme)」から造語されたものであり、宗教やイデオロギーを背景にしたインドネシア国内のさまざまな対立勢力の団結を訴え、スカルノがその調停者としてふるまうためのスローガンとして期間中くりかえしスカルノによって叫ばれ続けた。, スカルノにとって重要だったのは、冷戦下において中華人民共和国などからの様々な援助を受けて国内で支持者を急激に増やしていたインドネシア共産党と、右派勢力を中心にインドネシア国内で実力を持ちつつあった国軍、この両者の拮抗状況をたくみに利用して、権力のバランサーとして生き延びることだった。, さらに国民からの支持を維持するため、スカルノはたえずナショナリズムを鼓舞しつづけた。「反植民地主義」を掲げて、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワク、そしてシンガポールがマラヤ連邦と統合し1963年に成立したマレーシアとの対決を宣言した他、この頃より「反帝国主義」を掲げて、急速にイギリスやアメリカとの対立姿勢を強めた。, これらの様に西側諸国との関係が険悪になるのと反比例して、スカルノは冷戦下において西側諸国との対立姿勢を続けるソビエト連邦や中華人民共和国、北朝鮮などの共産主義諸国への接近を強めていった。この為に、「ドミノ理論」による共産主義勢力の東南アジアへの浸透を恐れたアメリカは、CIAを通じてスカルノの失脚を画策していたと言われている[2]。, さらにスカルノは、欧米諸国をはじめとする西側諸国を中心とした外国企業の資産を接収し、新たな外資の導入も禁止することで、外資の排除を図った。また、植民地時代から経済分野で優勢な地位を固めていた華人を差別し、さらにさまざまな輸入品目の規制を図ることで地場産業の振興を図り、自立的な経済の樹立を目指した。, しかし、これらの極端な経済、外交政策を取ったために、アメリカやイギリスをはじめとする西側諸国との関係はさらに険悪となり、これらの欧米諸国をはじめとする国際社会からの経済援助を停止された結果、深刻な食糧不足とインフレ率数100%に達する末期的な経済状況を生み出してしまった。さらに1965年1月に国際連合を脱退した事で、国際社会からの孤立状況は決定的なものとなった。, その様な状況下において、9月30日にインドネシア全土で「急進左派軍人勢力による国軍首脳部暗殺」というクーデター、それに迅速に対応したスハルトを中心とする右派軍人勢力を中心とした反クーデターの成功という「9月30日事件」が勃発し、その後の国内で右派軍人勢力による「共産党員狩り」が行われた。, 「共産党員狩り」によって冷戦下の東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党が壊滅し、国内で共産党が一掃されたことにより、右派軍人勢力と共産党、左派軍人勢力の間のバランサーとしてのスカルノの求心力は失われた。この様な状況は「ドミノ理論」を唱えるアメリカなど西側諸国にも歓迎されることになった。, 共産党への接近を進めるなど従来の親共路線の責任を問われたスカルノは、1966年2月21日に新内閣を発表して、なおも政権を維持しようとしたが、陸軍、イスラーム教系諸団体、学生団体などによるスカルノ糾弾の街頭行動が活発となり、辞任要求の圧力を抑えることができなかった。同年3月11日、スカルノは秩序回復のための一切の権限をスハルトに与える「3月11日命令書」にサインし、その実権をスハルトに譲った。スハルトは1967年3月に大統領代行に就任した。, インドネシアはその後、スカルノから実権を奪って1968年3月27日に正式に第2代大統領に就任したスハルトの「新秩序」体制のもとで、冷戦下の東南アジアにおける反共国家として中華人民共和国やソ連との関係を断絶し、同時にアメリカやイギリスなどの西側諸国との関係改善、国際社会への復帰を果たしていく。, 一方のスカルノは「国父」としての地位は保ったものの、全ての役職をはく奪され事実上の軟禁状態におかれ、さらに夫人全員と多くの家族が亡命するという失意の状況におかれたまま、1970年6月21日にジャカルタで死去した。, ファイル:Indonesia declaration of independence 17 August 1945.jpg, ファイル:Sukarno and Nixon Suara Indonesia 26 Oct 1953 p1.jpg, ファイル:1955 Indonesian Election Sukarno.png, http://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=スカルノ&oldid=67030, Pages using invalid self-closed HTML tags, 第二次世界大戦中から日本政府と良好な関係にあった上に、戦後も日本人の第3夫人を娶るなど西側諸国との関係が悪化した中でも日本との関係は良好であった。来日した際には昭和天皇と面会するのを楽しみにしており、冗談を言って笑わせることもあった。. スカルノ(Sukarno、旧正書法ではSoekarno、1901年6月6日 - 1970年6月21日)は、インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である。, Sukarnoでフルネーム。独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は不遇の晩年を送ったが、いまなお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父(建国の父)として敬意をもって愛され続けており、紙幣(最高額面の10万ルピア)に肖像が使われている。, オランダが長年植民地として支配していたジャワ島東部の都市スラバヤ生まれ。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥー教徒だった。, 名前の「スカルノ」は、ジャワのワヤン劇(インドの古代叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』に基づいている)に登場する武芸の達人「カルノ karno[1]」(ガウォンゴ国王スルヨプトロ)に由来。ここから「S.Karno」と署名した事もあったという。, 幼い頃からオランダ語を学び、原住民学校を卒業した後、ヨーロッパ人子弟の通う小学校を経て、スラバヤの高等市民学校(HBS)に入学した。, 同校を1921年に卒業後、植民地の宗主国オランダが1920年にバンドンに創設した高等工業学校(現バンドン工科大学)に入学。1926年5月に卒業している。, オランダによる過酷な植民地政策に対する反発を感じていたスカルノは、大学卒業とともに、本格的にオランダに対する反植民地運動を開始する。1927年7月4日には、宗主国のオランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党(Partai Nasional Indonesia、略称PNI)を結成した。, その後スカルノはインドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められるようになった。, 1929年12月にオランダ植民地政府に逮捕されて禁固刑を受けたが、1931年2月に恩赦をあたえられて出獄。しかし、1933年8月にはふたたび逮捕され、フローレス島のエンデに、続いて1938年2月スマトラ島のベンクルに流刑となった。この流刑地となったベンクルでは、後に第1夫人となるファトマワティと出会い、結婚している。, 1939年に第二次世界大戦が勃発し、1940年にオランダ本国がドイツに占領され本国政府はイギリスへ亡命したが、その後もオランダ植民地政府による植民地支配は続いた。, その後1941年12月に太平洋戦争(大東亜戦争)が始まると、アメリカ領フィリピンやイギリス領マレー半島から宗主国の軍隊を放逐した日本軍が、またたくまにオランダ領東インド全域(=インドネシア)からオランダ軍を放逐し、オランダ植民地政府とその軍隊は、多くの兵器のみならず在留オランダ人をも放置したままオーストラリアに逃げることとなった。, その後すぐに第16軍司令官である今村均は、オランダ植民地政府に囚われていたスカルノやハッタらを解放し、今村はインドネシアの民生の安定のために知名度の高いスカルノやハッタらの民族主義者の日本軍による占領への協力を要請した。他方のスカルノらもまた「民衆総力結集運動」を組織し、インドネシアの独立のために日本軍に協力し、イギリス軍やアメリカ軍、オランダ軍をはじめとする連合国軍と対峙することを選択した。, 1943年にはハッタとともに招かれて日本を訪問し、昭和天皇と面会するなど日本との関係を強めていくとともに、独立への理解が高い日本の協力を得る形での将来のインドネシア独立への道筋を作っていった。, その後も、日本軍が緒戦にてオランダ軍を完全に放逐していたインドネシアは、殆ど戦禍に巻き込まれることがなく平穏な状態が続いたものの、日本は1944年に入るとイギリスやアメリカ、オーストラリアなどを中心とする連合国軍に対して各地で劣勢となっていき、1945年8月15日に敗戦へと追い込まれる。, 日本が連合国に対して降伏してから2日後の8月17日、オランダ植民地政府が逃亡したままという権力の空白をぬった形でスカルノとハッタの2人が「インドネシア国民の名において」インドネシアの独立を宣言した。, しかし、これを認めないオランダは、周辺に植民地を持つイギリスやオーストラリアなどの助けを受けて軍を派遣し、軍事力による同地の再植民地化に乗り出した。これにより、独立したばかりのインドネシア共和国と旧連合国の支援を受けたオランダとの「インドネシア独立戦争」が勃発した。, 当初はオランダ優位に進むかに思われたが、オランダは本国が戦火に見舞われた上にドイツに占領されていたこともあり国力が低下していた上に、日本軍が放置していった兵器と残存した一部日本軍将兵の助けを受けたインドネシアの武装勢力(正規軍・非正規軍を問わず)とのゲリラ戦に苦しめられた。, なお、オランダを支援しようとしたイギリスもオランダと同じく国力が低下していた上に、インドやマレー半島などのアジアの植民地における独立運動が活発化していたため、オランダを支援するだけの余力は残っていなかった。その結果、1946年11月12日にオランダはジャワ島、スマトラ島、マドゥラ島をインドネシア共和国の勢力下にあると認め、双方は連邦国家樹立に向けて努力するという停戦協定(リンガジャティ協定)が成立した。, そして当初の予定どおり、イギリス軍は11月中にインドネシアからの撤退を完了した。しかしオランダ軍は同協定の批准も済んでいない1947年1月24日に攻撃を再開し、その後スラバヤ、ジョグジャカルタ周辺への空爆も開始しつつ陸軍部隊がジョグジャカルタにも迫った。ここで成立したばかりの国際連合が介入、さらに、外交交渉による紛争の解決がはかられ、8月1日に国際連合安全保障理事会で、即時停戦と仲裁による和平解決をもとめる安保理決議27が採択された。この決議にもとづいて8月4日に停戦が成立したが、その後もオランダ軍の攻撃は止まなかった。, さらにオランダは1948年12月11日に和平会談決裂を宣言、12月19日に共和国領内への全面攻勢が開始され、その後共和国臨時首都ジョグジャカルタを陥落させた。オランダはスカルノと首相兼副大統領のハッタ、そして閣僚の大半を逮捕しバンカ島に幽閉した。, しかし、国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難し、国連安保理は12月24日の決議でオランダに共和国指導者の釈放を要求した。かつての連合国のアメリカ合衆国はオランダへの経済援助の停止を通告し、和平協議復帰への圧力をかけた。オランダに逮捕されていたスカルノらは1949年7月6日にジョグジャカルタに帰還し、7月13日にはスマトラの臨時政府を解消して、政府機能を復活させ和平協議を再開させた。この結果、1949年12月のハーグ協定の締結によってオランダはインドネシアを放棄することになる。, オランダからの独立を達成し、宗主国であったオランダのみならず、アメリカやイギリス、フランスなど世界各国からの国家承認と援助を受けて独立国家としての一歩を踏み出したものの、オランダへの多額の債務補償を含む植民地時代からの「負の遺産」を多く抱えたその後のインドネシア、そして大統領となったスカルノの前途は多難を極めることとなった。, 1945年8月以降の対オランダ独立戦争期を通してオランダ植民地政府が執った、インドネシア独立運動各勢力の分裂工作の影響を受けて、国内統治機構は中央においても地方においても権力が分散しており、独立後に成立した諸政権による政治運営はいちじるしく困難をきわめた。, 建国後のインドネシアは原油とゴムの輸出によって経済を再建するとともに、政治的には議会制民主主義を忠実に実行したが、独立後より大統領職にあったスカルノは、1950年8月15日のオランダからの完全独立時に急ぎ採用された新憲法(1950年憲法)のもとでは強い権力を付与されておらず、リーダーシップを発揮できない状況にあり、インドネシア国民は困難な国政運営に対して有効な手立てを打てない政党政治家たちへの不信、不満を強めていった。, このような政局の混乱を収拾するべくして行なわれた同国初の総選挙(1955年)におけるスカルノの勝利、そしてその結果を受けて実施された議院内閣制によっても、事態は打開されなかった。インドネシアは、オランダによる過酷な植民地支配からの脱却を勝ち取った末の民族の統一を目指すはずが、現実には国家分裂の危機へと向かっていた。, こうした事態を収拾するためにスカルノが1950年代末頃から打ち出したのが「指導される民主主義」の構想である。これは、混乱の原因とされる議会制を停止し、スカルノが国内諸勢力の調停者として国家を指導するというもので、独裁化という危険をはらむものであったものの、混乱する政局に嫌気がさしていた国民の間にも支持者が拡大した。, この様な支持の増大を受けて、1959年7月5日にスカルノは議会を解散し、スカルノの行動を制約していた1950年憲法を停止して、強大な大統領権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。, これに先立つ1955年には、ジャワ島西部の都市バンドンにて第一回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)を主催し、インドやフィリピン、中華人民共和国など、第二次世界大戦後に続々と独立を果たした、もしくは建国された新興国、いわゆる「第三世界」のリーダーの1人として脚光を浴び、会議を成功に導くなど、国際社会での知名度を高めた。, 第二次世界大戦中よりスカルノと親密な関係を持っており、第二次世界大戦後急速に復興を進めて世界有数の経済大国に返り咲いた日本は、アメリカやイギリスと同じ西側諸国の一国となったものの、その後も一貫して政府借款や企業によるインドネシアへの投資を行うなど、経済面を中心にスカルノと引き続き親密な関係を続けていくこととなった。, さらに1959年には、日本の商社「東日貿易」からの紹介を受けて、日本人の妻(第3夫人で後のデヴィ・スカルノ である)を娶ることとなり、より密接な関係を築くことになる。, 冷戦下の1950年から1965年にかけてのスカルノ政治のキーワードの1つが「ナサコム(NASAKOM)」である。これは「ナショナリズム(Nasionalisme)、宗教(Agama)、共産主義(Komunisme)」から造語されたものであり、宗教やイデオロギーを背景にしたインドネシア国内のさまざまな対立勢力の団結を訴え、スカルノがその調停者としてふるまうためのスローガンとして期間中くりかえしスカルノによって叫ばれ続けた。, スカルノにとって重要だったのは、冷戦下において中華人民共和国などからの様々な援助を受けて、1955年の総選挙では第4党になるなど、国内で支持者を急激に増やしていたインドネシア共産党と、右派勢力を中心にインドネシア国内で実力を持ちつつあった国軍、この両者の拮抗状況をたくみに利用して、権力のバランサーとして生き延びることだった。その一環として、1961年にはインドネシア共産党のディパ・ヌサンタラ・アイディット書記長を閣内に招き入れ、中華人民共和国との関係強化にあたらせた。, これまでにスカルノは、アメリカを訪問しドワイト・D・アイゼンハワー大統領やリチャード・ニクソン副大統領とにこやかに会談するなど、西側諸国との友好関係を保っていたが、国内での求心力を保ち続けるためにナショナリズムと民族主義を鼓舞しつづけた。1960年代以降は「反帝国主義」を掲げて、急速にイギリスやアメリカ、中華民国をはじめとする西側諸国との対立姿勢を強めると同時に、西側諸国との関係が深い近隣諸国との対立を深めた。, 1961年12月に、オランダの植民地として維持されていたニューギニア島西部(イリアンジャヤ)に「西イリアン解放作戦」として空挺部隊を派遣し、オランダとの戦闘の挙句これを占領した。国際連合の調停の結果停戦し、国連の暫定統治の後、1963年5月、その施政権がインドネシアに移管された[2]。この併合に反対する自由パプア運動やen:National Committee for West Papuaがインドネシア政府に反旗を翻し、パプア紛争(1963年–現在)が起こった[3]。, 1963年にマラヤ連邦が北ボルネオ(現在のサバ州)やサラワクをイギリスから譲り受けてマレーシアが建国されると、スカルノはこれをイギリスによる新植民地主義のあらわれであると非難し、「対決政策(English版)」を宣言した。インドネシアはボルネオ島全域の領有を主張して、マレーシア領へ侵入するなど、一触即発の事態となった。これは翌年に領有を主張するフィリピンも含めた3者が東京で会談するなどで、現状維持で落ち着いた。, これらの様に西側諸国との関係が険悪になるのと反比例して、冷戦下において西側諸国との対立姿勢を続けるソビエト連邦や中華人民共和国、北朝鮮などの共産主義諸国、さらにはキューバ革命で政権を担うようになりアメリカとの対立姿勢を強めたキューバのフィデル・カストロの元を訪問するなど東側諸国への接近を強めていった。この為に、「ドミノ理論」による共産主義勢力の東南アジアへの浸透を恐れたアメリカのジョン・F・ケネディ大統領は、CIAを通じてスカルノの失脚を画策していたと言われている[4]。, 1965年1月7日に、マレーシアの非常任理事国入りに抗議するために国際連合を脱退したインドネシアは、当時国際連合の常任理事国だった中華民国と対立する、中国共産党の一党独裁国家の中華人民共和国との間で「北京=ジャカルタ枢軸」を形成して同じ国連非加盟国の北朝鮮や北ベトナムなども加えた「第二国連」をつくるとして新興勢力会議(CONEFO)を結成し、CONEFOの本部(現インドネシア議会議事堂)をアラブ連合共和国と中華人民共和国[5]から援助を受けて建設した(なお、国連を自主的に脱退した例は今日までこの時のインドネシアだけである)。, なおスカルノは、先に行われたバンドン会議に中華民国を招待せず(中華民国による周恩来の暗殺作戦とされるカシミールプリンセス号爆破事件の遠因となった)、1962年アジア競技大会ではアラブ諸国と敵対したイスラエルとともに中華民国を除外し、中華人民共和国が脱退した国際オリンピック委員会に対抗して新興国競技大会も開催するといった徹底した親中政策を徹底した。この様な親中政策の背景には、中国共産党との関係が深いインドネシア共産党の影響が大きい。, さらにスカルノは、旧宗主国のオランダのみならず、かつては独立を支援したアメリカを含む西側諸国を中心とした外国企業の資産を接収し、新たな外資の導入も禁止することで、外資の排除を図った。また、オランダの植民地時代から経済分野で優勢な地位を固めていた華人を差別し、さらにさまざまな輸入品目の規制を図ることで地場産業の振興を図り、自立的な経済の樹立を目指した。しかし、これらの極端な経済、外交政策を取ったために、アメリカやイギリスをはじめとする西側諸国との関係はさらに険悪となり、これらの欧米諸国をはじめとする国際社会からの経済援助を停止された結果、深刻な食糧不足とインフレ率数百%に達する末期的な経済状況を生み出してしまった。, しかし、西側諸国の中枢にありながら、かねてから個人的にも関係の深い日本との関係だけは例外的に良好で、スカルノ自ら頻繁に日本を訪問する傍ら皇太子の訪問を受け入れるほか、円借款を含む様々な援助や企業の進出を積極的に受け続けていた。, 1965年9月30日、前年の核実験でアジア初の核保有国となった中華人民共和国の毛沢東はスカルノ政権に核開発の支援を申し出る[6]までに中華人民共和国とインドネシアの蜜月は絶頂期にあった。, その数時間後、インドネシア全土で「急進左派軍人勢力による国軍首脳部暗殺」というクーデター、それに迅速に対応したスハルトを中心とする右派軍人勢力を中心とした反クーデターの成功という「9月30日事件」が勃発し、その後の国内で右派軍人勢力による「共産党員狩り」が行われた。, 「共産党員狩り」によって冷戦下の東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党が壊滅し、国内で共産党が一掃されたことにより、右派軍人勢力と共産党、左派軍人勢力の間のバランサーとしてのスカルノの求心力は失われた。この様な状況は「ドミノ理論」を唱えるアメリカなど西側諸国にも歓迎されることになった。, 共産党への接近を進めるなど従来の親共路線の責任を問われたスカルノは、1966年2月21日に新内閣を発表して、なおも政権を維持しようとしたが、陸軍、イスラーム教系諸団体、学生団体などによるスカルノ糾弾の街頭行動が活発となり、辞任要求の圧力を抑えることができなかった。, 同年3月11日、スカルノは秩序回復のための一切の権限をスハルトに与える「3月11日命令書」にサインし、その実権をスハルトに譲った。スハルトは1967年3月に大統領代行に就任した。, インドネシアはその後、スカルノから実権を奪って1968年3月27日に正式に第2代大統領に就任したスハルトの「新秩序」体制のもとで、冷戦下の東南アジアにおける反共国家として中華人民共和国やソ連と距離をおき、同時にアメリカやイギリスなどの西側諸国と接近する。, 一方のスカルノは「国父」としての地位は保ったものの、全ての役職をはく奪され事実上の軟禁状態におかれ、さらに夫人たちと多くの家族が亡命、離散するという失意の状況におかれたまま、1970年6月21日にジャカルタで死去した。. カフェ・ル・プティ・ニ・トロワ/cafe Le Petit Nid 3 (軽井沢/カフェ)の店舗情報は食べログでチェック! 【禁煙】口コミや評価、写真など、ユーザーによるリアルな情報が満載です!地図や料理メニューなどの詳細情報も充実。 p. 394. ファイル:Indonesia declaration of independence 17 August 1945.jpg, ファイル:Sukarno and Hatta before exile (1948), Bung Karno Penjambung Lidah Rakjat 235.jpg, ファイル:Sukarno and Nixon Suara Indonesia 26 Oct 1953 p1.jpg, ファイル:1955 Indonesian Election Sukarno.png, ファイル:Dwight Eisenhower, Mamie Eisenhower, and Sukarno, Presiden Soekarno di Amerika Serikat, p18.jpg, GANEFO & CONEFO Lembaran Sejarah yang Terlupakan, Kisah Cinta 'Terlarang' Bung Karno dan Penari Istana, Heldy Djafar Sejak Dalam Kandungan Diramal Dapat Orang Besar, Charity defends giving 'PEACE' award to North Korean dictator Kim Jong-un, http://mymemo.xyz/wiki/index.php?title=スカルノ&oldid=93529, 夫人: カルティニ・マノッポ(Kartini Manoppo, 1939-1990), 第二次世界大戦中から日本政府と良好な関係にあった上に、戦後も日本人の夫人を娶るなど西側諸国との関係が悪化した中でも日本との関係は良好であった。来日した際には昭和天皇と面会するのを楽しみにしており、冗談を言って笑わせることもあった。. BoD – Books on Demand. A Gecko for Luck p180. ISBN 978-3-8391-5248-5. Geerken, Horst H (2010). あの当事、ハルティニさんと私とがとった対応は、光と影ほどに対照的です。ハルティニさんはスカルノ失脚後に備え保身に動きました。わたくしはスカルノ体制建て直しのために奔走しました。 (p.32) この下りはスカルノの子供達の仲違いやハルティニの息子の死亡、カリナとの間が述べられている。 多分9メートルのスカルノ立像はラッハマワティと関係なく、飛行場に行く手前に立てられたこれもハッタと手をつなぐ(実際はつないでない)二人セットの像であろう。 前後に5人ものライバルで、最後はハルティニと二人で告別式に、Kartika Sari 1967在渋谷 7. スカルノ(Sukarno ... 第2夫人:ハルティニ(Hartini, 1925年-2002年) 第3夫人:デヴィ(Dewi, 1940年-)(日本名:根本七保子、タレント) 第4夫人:ハリアティ(Haryati) 長女:メガワティ(Megawati)-第5代大統領。 息子:グルー・スカルノプトラ (Guruh Sukarnoputra, 1953年-)- 第1 Yurika Sanger 1964-1968 1945 多様性の中の統一戦線メンバーの学生、ヤソオ宮殿に幽閉に際し離婚を求めさせられる 9. Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. ハルティニ; 風林寺 静羽 ; 風林寺 隼人; 白浜 兼一; 弟子級; アンダカ; 馬 剣星; ミルドレッドの弟子; 陳 宗岳; 趙 円臣; ラデン・ティダード・ロナ; 田中 真結; 西の槍; ボリス・イワノフ; 流水無拍子; 芳養美 樹馬; 谷本 夏; サブタイトル集; 李 天門; マイクロフト; 気当たり; 久賀舘 弾祁; 九弦院 響 Heldy Djal 1966-1969 1947 ヤフーのブログ閉鎖に伴う移行参入ですが、 移行前に機能していた「読書記録ブログ間の横リンク」が、現在はほとんど機能しておらず、「引用部分の枠囲い」も消えてしまいました。修復のためにインデックスを作成し、順次作業中です。, 『愛をつなぐ』 デヴィ・スカルノ 冬青社 | 書いとかないと忘れちゃうから「読書記録」, この本に書かれている内容から、デヴィ婦人の 「愛をつなぐ」 とタイトルにしたその愛が、いかなる愛を意味しているのかが分かる。, ファースト・レディーの地位を夢見ていたハルティニさん(4番目の妻)にしてみれば、私は突然現れた異邦人、許されぬ存在に映ったのでしょう。嫉妬の亡者となった彼女のわたくしへの攻撃は、陰に陽に蛇のように執拗で、殆ど迫害というに近いものでした。 (p.31), あの当事、ハルティニさんと私とがとった対応は、光と影ほどに対照的です。ハルティニさんはスカルノ失脚後に備え保身に動きました。わたくしはスカルノ体制建て直しのために奔走しました。 (p.32), スハルト政権が喧伝した、いわゆる “共産党によるクーデター未遂事件” を端緒に、アメリカ、オランダおよび日本の支援を受けた軍部がスカルノ大統領から政権を奪った政変です。 (p.32), スカルノ元大統領が戦後賠償金で日本に留学させた優秀な青年達が、帰国してスハルト金権体制を支えたのは歴史の皮肉です。 (p.76), スハルト政権は、67年から69年の3年間で120万人のスカルノ派を虐殺したといわれています。 (p.76), フランスの一流紙、「パリ・マッチ誌」 が私の特集を組み、「パリが迎えた世界で最も美しい流刑者」 と紹介してくれました。 (p.84), かれは65年に25歳で渡仏し、70年、パリに小さなブティックを開店します。その名も “JAP” と挑発的でした。日本人の蔑称をなぜ店名に使うのかと非難され、彼は応えたものです。, わたくしは19歳でシンガポールに降り立ったとき、日本軍が英国軍に無条件降伏したゆかりの場所をどうしても見たいと思い、スケジュールを押して訪ねることにしました。ところが、わざわざ探し当てて建物の前に立ったというのに、万感胸に迫り、なかに入ることができませんでした。涙がぽろぽろ溢れ出し、辛くせつない思いで立ち尽くすだけ。. スカルノ(Sukarno、旧正書法ではSoekarno、1901年 6月6日 - 1970年 6月21日)は、インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である。. スカルノ・ハッタ国際空港(スカルノ・ハッタこくさいくうこう、インドネシア語: Bandar Udara Internasional Soekarno-Hatta 、英: Soekarno–Hatta International Airport )は、インドネシアの首都のジャカルタ郊外のバンテン州 タンゲランにある国際空港である。 空港コードはCGK/WIII Haryati 1963-1966 1944 元宮殿の踊り子兼秘書 8.