フェルディナンド・マルコス、1969年12月30日、マニラのクイリノ・スタジアムでフィリピン大統領として宣誓 1965年12月、国民党から出たフェルディナンド・マルコスは自由党の現職大統領マカパガルに67万票の大差をつけて第10代フィリピン大統領に選出されました。 カリモフ廟(ロシア語版) - ブルギーバ廟(英語版) - ホメイニー廟 - アサド廟(ハーフィズ・アル=アサド) - 中山陵(孫文) - レーニン廟 - ホー・チ・ミン廟 - 毛主席紀念堂(毛沢東)- 錦繍山太陽宮殿(金日成 - 金正日)- カラカス革命博物館(スペイン語版)(ウゴ・チャベス) - 花の家(英語版)(ヨシップ・ブロズ・チトー) - ベネズエラ国立祠堂(英語版)(シモン・ボリバル) - ブエノスアイレス・メトロポリタン大聖堂(英語版)(ホセ・デ・サン・マルティン) - ラパス・平和の聖母大聖堂(英語版)(アンドレス・デ・サンタ・クルス)- パラグアイ国立英雄祠堂(スペイン語版)(カルロス・アントニオ・ロペス - フランシスコ・ソラーノ・ロペス) - ペルー独立英雄祠堂(スペイン語版) - メキシコ独立記念碑(ミゲル・イダルゴ)- メキシコ革命記念塔 - 祖国の祭壇(スペイン語版)(ベルナルド・オイギンス) - ブラジル独立記念碑(ポルトガル語版)(ペドロ1世) - エンクルマ記念碑(英語版), 慈湖陵寝(中国語版)(蔣介石) - 大渓陵寝(中国語版)(蔣経国) - ヤーセル・アラファートの墓, ゲオルギ・ディミトロフ廟(英語版) - ヴィトコフ国立記念碑(英語版)(クレメント・ゴットワルト) - スフバートル廟 - カロル公園(英語版)(ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ)- フェルディナンド・E・マルコス大統領センター(フェルディナンド・マルコス)- 戦没者の谷(フランシスコ・フランコ), In Philippines, One Last Symbol Lies in State, Imelda Marcos Plans Funeral Extravaganza For Ex-Dictator – Hoopla Abounds As Body Arrives In Home Province, A Hero’s Burial for Long-Dead President Marcos? 本項では、フェルディナンド・マルコスの埋葬について記載する。フィリピン共和国第10代大統領フェルディナンド・マルコスは1986年にピープルパワー革命で失脚し 、1989年に亡命先のハワイで病死した 。1993年に遺体の帰国が認められたものの、イメルダ・マルコス夫人らが英雄墓地(英語版)への埋葬を希望する一方、ベニグノ・アキノ3世らが反対していた 。 、1989年に亡命先のハワイで病死した[2]。1993年に遺体の帰国が認められたものの、イメルダ・マルコス夫人らが英雄墓地(英語版)への埋葬を希望する一方、ベニグノ・アキノ3世らが反対していた[2]。, しかし、2016年6月にフィリピン共和国大統領に就任したロドリゴ・ドゥテルテが「国民の和解」を理由に英雄墓地への埋葬を決定し[2]、マルコス大統領の英雄墓地への埋葬を認めるか否かはフィリピンを二分する議論となったが、最終的に2016年11月18日に英雄墓地へと埋葬された[3]。, 英雄墓地(フィリピン語:Libingan ng mga Bayani, LNMB)は、1947年に第二次世界大戦で戦死した人々のために「Republic Memorial Cemetery(直訳:共和国記念墓地)」の名前で設立され、1954年にラモン・マグサイサイ大統領によって、現在の名称に改名された[4]。, この墓地に埋葬される資格があるのは、フィリピン軍では最高位の勲章であるmedal of valorの受章者、フィリピン共和国大統領、フィリピン軍の総司令官参謀長、将校、殉職者、フィリピン沿岸警備隊またはフィリピン国家警察(英語版)に就職した退役軍人、フィリピン独立革命、第一次世界大戦、第二次世界大戦、ゲリラとの戦いに参加した軍人、政府または教会の高官・宗教指導者、政府の役職を経験した政治家、国会議員、国民的な芸術家、もしくは軍総司令官、議会、または国防大臣によって承認された人物だとされている[4]。, フィリピン共和国第10代大統領のフェルディナンド・マルコスは、1986年にピープルパワー革命で失脚し、家族を伴いアメリカ合衆国に亡命したが[5]、1989年に亡命先のハワイ州で病死した[2]。1991年に家族が帰国し[5]、1993年に遺体の帰国も認められ、出身地である北イロコス州のマルコスの博物館・フェルディナンド・E・マルコス大統領センターにある廟で冷凍保存されていた[2]。, 独裁者で戒厳令下の人権蹂躙で大勢の被害者がいるが、『日本経済新聞』によれば、出身地のルソン島北部では未だに根強い人気があり[6]、また『産経新聞』によれば、独裁時代を直接経験していないフィリピンの若者では「開発独裁」との呼び名があるマルコス政権を「黄金時代」として再評価する意見も存在する[2]。, 前節で述べたようにマルコス大統領の遺体は、北イロコス州の霊廟に安置されていたが、彼の遺族は30年以上英雄墓地への埋葬を希望していた[7]。だが、第15代大統領のベニグノ・アキノ3世は父ベニグノ・アキノ・ジュニアがマルコス政権時代に暗殺されており、英雄墓地への埋葬に反対していた[2][注釈 1]。, 次の第16代大統領ロドリゴ・ドゥテルテは、父ヴィンセント・ドゥテルテ(英語版)がマルコス政権で一時期閣僚を務めていた人物であり[6]、自身も大統領選でマルコス大統領の娘アイミー[注釈 2]の支援を受けている[7]など、マルコス一族と親しい関係にあると報じられており[6]、2016年6月に大統領に就任するとマルコス大統領の遺体を英雄墓地へ埋葬すると決定した[1]。, だが、埋葬差し止めの仮処分を求める申請がフィリピン最高裁判所に提出され[1]、8月に最初の差し止めが行われ後に2回差し止め期間が延長された[10]。9月7日には10月18日まで埋葬を禁止して審理を継続させる判断が下された[2]。その後、再度差し止め期間が11月8日まで延長されて審議が続けられたが[10]、11月8日、最高裁はマルコス大統領の英雄墓地への埋葬を認める判決を下した[6]。, 2016年11月18日、マルコス大統領の遺体がヘリコプターで英雄墓地まで運ばれ埋葬した[9]。日時は事前に公開されず、厳戒態勢で短時間の内に埋葬し[3]、英雄墓地には警察警備隊が配備された[7]。, 2016年8月14日、マニラ市内のホセ・リサール公園で[1]マルコス元大統領を英雄墓地へ埋葬する決定に対する抗議デモが実施され、約数百人が参加した[11]。, デモの主催者は、フィリピン軍の規定で不道徳行為に関与した罪で有罪となった人物は英雄墓地に埋葬できないので、マルコス大統領はこの規定に該当するのだと主張した[11]。8月18日に英雄墓地に反対派数百名が集まり、門の前で警官ともみ合う事態になった[1]。9月21日、マルコス大統領が44年前に戒厳令を発令した日、埋葬に反対する学生数千人がデモ行進を実施した[2]。また、11月18日の埋葬後にも抗議行動が行われた[7]。, 2016年11月8日、フィリピン最高裁でマルコス大統領の埋葬問題について投票が行われ、賛成9票、反対5票、棄権1票で埋葬が認められた[10]。最高裁の報道官は主な理由として、ドゥテルテ大統領による埋葬指示は重大な職権乱用とは言えないこと、ドゥテルテ大統領には公的な目的のために公有地を使用する権限があること、マルコス大統領は英雄墓地への埋葬資格のうち大統領、司令官など複数の条件を満たしていること、「不名誉除隊」による埋葬資格喪失は軍人を対象したものでありマルコス大統領には適用できないこと、不道徳行為による有罪判決を受けておらずこちらの理由でも資格喪失していないことを挙げた[10]。, 第15代大統領のベニグノ・アキノ3世は父ベニグノ・アキノ・ジュニアがマルコス政権時代に暗殺されており、英雄墓地への埋葬に反対した[2]。ボビー・タナダ(英語版)元上院議員は2016年8月14日の抗議デモで演説し、その中でマルコス大統領を英雄墓地に埋葬するのは「国家の恥」だと述べた[11]。ウォールデン・ベロ(英語版)元下院議員は「アル・カポネをアーリントン国立墓地に葬るようなもの」と表現した[11]。オンティベロス上院議員は「世界中の笑いものになる」と懸念を表明した[1]。レニー・ロブレド副大統領も反対派であり、埋葬が行われた後に「(マルコス元大統領は)英雄ではない。もし英雄であれば、遺族は恥ずべき犯罪行為のように埋葬を隠す必要はないだろう」と主張した[7]。, ホセ・カリダ(英語版)検事総長は裁判で戒厳令はもはや「国家のトラウマ」ではないと述べてマルコス大統領には英雄墓地に埋葬される資格があると主張し、根拠として前年2015年の副大統領選の結果を挙げた[10]。この選挙にはマルコス大統領の息子ボンボン・マルコスが出馬しており、レニー・ロブレドに20万票以上の差で敗れはしたが1400万票もの票を獲得していた[10]。, アイミー・マルコスはマルコス大統領の娘であり、2016年11月時点では北イロコス州知事を務めている, “マルコス元大統領の「英雄墓地」埋葬めぐり波紋、フィリピン 反対派「世界中の笑いものになる」”, http://www.sankei.com/world/news/160820/wor1608200045-n1.html, “ドゥテルテ氏またお騒がせ “人権弾圧”のマルコス元大統領を「英雄」墓地に 「歴史を浄化するな!」と数千人デモ”, http://www.sankei.com/world/news/160923/wor1609230031-n1.html, https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM18H5V_Y6A111C1FF2000/, Libingan ng mga Bayani: Facts and Figures, https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM08H8H_Y6A101C1FF2000/, https://www.cnn.co.jp/world/35092454.html, “Why not Libingan ng mga Pangulo instead?”, http://news.abs-cbn.com/nation/06/30/11/why-not-libingan-ng-mga-pangulo-instead, “Supreme Court allows burial of Marcos at Heroes' Cemetery”, http://cnnphilippines.com/news/2016/11/08/Marcos-hero-burial-Libingan-ng-mga-Bayani-Supreme-Court.html, https://www.cnn.co.jp/world/35087460.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フェルディナンド・マルコスの埋葬&oldid=74967757. It’s Being Considered, Batac City, Ilocos Norte » Understanding the Final Argument of a Dictator's Town, Binay recommendation: Military honors for Marcos burial in Ilocos, Malacanang mum on Binay recommendations for Marcos burial, Marcos' Undertaker to Ready His Body for Return Home, http://www.rappler.com/move-ph/144664-marcos-necropolitics-bury, “‘Replica’ left in mausoleum on day of Marcos burial”, http://www.rappler.com/newsbreak/inside-track/152973-replica-body-mausoleum-marcos-burial, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フェルディナンド・E・マルコス大統領センター&oldid=74968378. 本項では、フェルディナンド・マルコスの埋葬について記載する。フィリピン共和国第10代大統領フェルディナンド・マルコスは1986年にピープルパワー革命で失脚し[1] フェルディナンド・エドラリン・マルコス ( Ferdinand Edralin Marcos 、 1917年 9月11日 - 1989年 9月28日 )は フィリピン 共和国第10代 大統領 (在職 1965年 12月30日 - 1986年 2月25日 )。 フェルディナンド・E・マルコス大統領センター(Ferdinand E. Marcos Presidential Center)またはマルコス博物館・霊廟(Museo y mausoleo Marcos)は、フィリピン・北イロコス州バタック(英語版)にある、元フィリピン大統領フェルディナンド・マルコスに関する博物館である。博物館には、兵役時代から大統領時代に至るまでのマルコスの遺品が展示されている他、マルコスの慰霊碑がある。この慰霊碑は、かつてマルコスの防腐処理された遺体がガラス製の棺に収められて公開されていた、マルコスの霊廟だった[1][2]。マルコスの遺体は、2016年にマニラの英雄墓地(英語版)に埋葬された。現在、慰霊碑のガラスの棺には、蝋で作られたマルコスの遺体のレプリカが収められている。, 1989年9月28日、マルコスはハワイで肺・腎臓・肝臓の合併症で亡くなった。彼が家族とともにフィリピンから追放されてから3年後のことだった。1986年、マルコス政権はエドゥサ革命によって打倒され、彼はハワイに亡命した[3]。コラソン・アキノ大統領は、マルコスの遺体のフィリピンへの帰還を拒否した[4]。そのため、マルコスの遺体は、オアフ島にある日本式の仏教寺院・平等院テンプルの敷地内の空調設備を備えた地下室の仮廟に、ガラス張りの棺に収められて安置された[5]。, 死から4年後の1993年9月、マルコスの遺体はフィリピンに運ばれた[6]。アキノの後任の大統領であるフィデル・ラモスは、マルコスの未亡人であるイメルダ・マルコスに夫の遺体を持ち帰ることを許可したが、英雄墓地への埋葬は拒絶した[7]。遺族が語ったところによれば、一連の儀式と式典の後、マルコスの遺体は故郷の霊廟に安置され、公開された[6][8][9]。, ベニグノ・アキノ3世大統領(コラソン・アキノとベニグノ・アキノ・ジュニアの子)は、マルコスを英雄墓地に埋葬するかどうかの決定を副大統領ジェジョマール・ビナイに委ねた[10]。ビナイは英雄墓地への埋葬を勧告したが、アキノはそれを実行しなかった[11]。アキノの後任のロドリゴ・ドゥテルテ大統領は、英雄墓地へのマルコスの埋葬を承認し、2016年11月18日に埋葬が行われた。, マルコスの葬儀人であるフランク・マラベドは、以前の霊廟に遺体が安置されている間、その遺体の保存処理を行ったと述べている。フィリピン人がそれがマルコスだと認識できるように、マルコスの遺体を修復するのに3週間かかった。現地の葬儀人が定期的に維持し、確認を行った。フィリピンに帰還する前に、遺体を保護するためにホルムアルデヒドが使用された[12]。, 歴史家アントニオ・モンタルバン2世が、彼の親しいマルコス一族の友人から、ガラスの棺に飾られた遺体は本物ではなく蝋人形であると明かされたと述べたことが、2016年8月に報じられた。それによれば、本物の遺体は棺の下に埋められているという[13]。, 報道によれば、マルコスの遺体の蝋のレプリカは、マルコスの実際の遺体が英雄墓地に埋葬された日にガラスの棺の中に残されたという。また、マルコスの遺体のレプリカは他に2つまたは3つあると報じられている[14]。, オテル・デ・ザンヴァリッド(ナポレオン・ボナパルト)- ムハンマド5世廟 - アタテュルク廟 - ジンナー廟 - ブットー廟(英語版) - ムジブル・ラフマン廟 - ジアウル・ラフマン廟(英語版) - ニヤゾフ廟(ロシア語版) - イメルダは、フェルディナンドとの間に長女 アイミー ( 英語版 ) 、 長男 ボンボン・マルコス 、次女 アイリーン ( 英語版 ) の3人の子を儲けた。 彼が家族とともにフィリピンから追放されてから3年後のことだった。1 1986年、マルコス政権は エドゥサ革命 によって打倒され、彼はハワイに亡命した 。 フェルディナンド・マルコス・ジュニア または ボンボン・マルコス ( Ferdinand "Bongbong" Romualdez Marcos Jr., 1957年 9月23日 - )は、 フィリピン の 政治家 。 フィリピン共和国 大統領だった フェルディナンド・マルコス の息子である。 フィリピンで20年間に渡って権力を握っていたフェルディナンド・マルコス氏。 彼はフィリピンの第10代大統領であり、独裁者でした。 [CDATA[ //]]>, 父親は弁護士にしてイロコス・ノルテ州選出国会議員、母親は教師であった。4人兄弟の2番目で彼の祖先はフィリピン人・中国人・日本人の混血とされる。 1937年、フィリピン大学法学部の学生だったとき、父親と政治的に対立していた下院議員暗殺事件の容疑で起訴され、同年11月に有罪判決を受けた。マニュエル・ケソン大統領により恩赦を受けるが、これを拒否し刑務所にて裁判の準備と司法試験の勉強をして過ごした(後に司法試験はトップで合格する)。翌年、最高裁判所判決にて無罪となる。, 第二次世界大戦中、マルコスはフィリピン自治領軍第21歩兵師団の戦闘情報局員として従軍した。後に書かれた彼の伝記によれば、日本軍がフィリピンに進出した1942年1月、当時中尉だったマルコスは、18歳だった3人の新兵と共に、後方の日本軍前線を突破し敵兵の50人を殺害、同師団を釘付けにしていた日本軍の迫撃砲を破壊し、さらに日本軍の捕虜となった際、拷問をかけられながらもこれに反撃し脱出したことが記されている。この軍功により大尉に昇進し名誉勲章に推薦されている。同年1月、日本軍はマニラを無血占領したが、マルコスは辛くもバターン死の行進から脱出している。こうした、マルコスによって主張される抗日ゲリラ活動での活躍は、後の政治的成功の大きな要因となった。しかし、後に明らかになった米国公文書館の記録によれば戦時中の活動は極僅かもしくは全く無かったとされている。, 1946年から1947年まで、マニュエル・ロハス大統領の補佐官を務め、1949年から下院議員に当選、その際の選挙コピーは「投票日に、あなたの下院議員として私を選出してください。そうすれば私は20年で大統領となります」であった。1959年には上院議員に鞍替えし1962年から1965年まで上院議長を務めた。, 1954年に、イメルダ・マルコスと結婚、2人の間に3人の子供に恵まれた。長女で現在もフィリピン下院議員を勤めるマリア・マルコス。長男でイロコス・ノルテ州知事のフェルデナンド・マルコスjr。そして次女のアイリーン・マルコスである。また養女にミュージシャン・企業家のエイミー・マルコスがいる。なお、2004年に、シドニーの新聞がマルコスと水着モデルとの間に1971年生まれの娘がいたとする報道の他、マルコスには17人の非嫡出子がいるとの噂が有る。, 議員時代までマルコスの政治経験の大半はフィリピン自由党党員としてであった。1965年の大統領選挙では党の候補者指名を求めたが、指名されたのは現職大統領のディオスダド・マカパガルであった。マルコスは自由党を離党しフィリピン国民党 に入党、同党の大統領候補として副大統領候補のフェルデナンド・ロペスと共に大統領選挙で地滑り的大勝を果たす。, マルコスの政策は、国内の地方開発と徴税機能の強化であり、在任中に強靭な経済を作り上げることを公約した。実際に失業率は1966年から1971年までに7.2%から5.2%に減少した。また、国内産業の工業化と西側自由世界の貿易自由化を推進した。, また、在任中はアメリカと緊密な同盟関係を築く。歴代のアメリカ大統領、特にリンドン・ジョンソン ・リチャード・ニクソン・ロナルド・レーガンとは親密であった。1966年10月にベトナム問題に関するSEATO首脳会議を主催し、米国に対する軍事的協力を目的に、南ベトナムにフィリピン軍を派兵する。, 国内の治安面では、共産主義の脅威に対抗し共産党系の新人民軍や、少数民族であるモロ族の暴徒に対して軍事行動を開始した。, こうした実績により、1969年の大統領選挙ではロペスと共に再選された。1971年、マルコスは1935年に制定されたフィリピン憲法の修正を目的に憲法制定会議を発足させる。会議は元大統領カルロス・P・ガルシアらを中心に321人の選出された代表者で構成されていた。しかし、会議では「新憲法下でマルコスの再選禁止」提案に対して、これを支持する為の買収による多数派工作が発覚し、スキャンダルにまみれることになる。なお、マルコス自身は首相として引き続き政権を担えるよう議院内閣制への政体変更を主張していた。, 1970年1月から3月にかけて「第1四半期の嵐(First Quarter Storm)」と呼ばれる学生運動に端を発した暴動の増加や、新人民軍の爆弾テロによって国内の政情は不安定となる。マルコスは、一連の暴動を共産主義の脅威として警告し「共産主義者が徘徊し、人々の殺害と女性たちのレイプを起こして、卑怯に国を破壊する」と主張した。そして、1972年9月21日に、「布告No.1081」によって、フィリピン全土に戒厳令を布告した。この戒厳令により1935年憲法は停止され、独裁政権への道を開くことになる。1973年には戒厳令の布告中に、大統領職と首相職を兼任することを認める議院内閣制の新憲法を制定、さらに1976年には暫定議会選挙まで両職を兼任できるように憲法改正を行う。, こうした戒厳令布告による強権政治は隣国インドネシアのスハルトの手法を真似たとされている。マルコスの著書、「新しい社会の上に記録する」によれば、それは既存の特権階級に与えられていた権益を貧者に解放する政策であった。フィリピン経済を伝統的に支配した華僑など既存の特権階級が持つ権益は没収され、貧しい人たちと特権を与えられたとされたが、実際にはマルコスの一族と取り巻きに引き継がれたに過ぎなかった。この現象を示すために「コロニー資本主義」なる用語まで登場した。この政策は国家主義的な意図があったとされ、この既存階級に対する闘争は労働者の支持を集め、農地解放は農民の支持を集めた。しかし、この間に、その権益の分配をめぐり贈収賄・恐喝・横領が生じることになる。, 戒厳令布告は、フィリピンの政情不安を背景、特に共産主義の東南アジア諸国に対するドミノ現象を警戒する旧宗主国のアメリカをはじめとする諸外国の理解が得られた。戒厳令と夜間闇外出禁止令施行後、国内の犯罪率が劇的に落下し、政情の安定は1970年代を通じて経済成長につながった。, マルコス支配に反対する、ベニグノ・アキノら有力者が拘束され、 結果として、何千人もが北米に移住した。また、 路上でのデモといった反政府活動ではそのリーダーが即座に逮捕されて、拘留・拷問にかけられたか、消息不明となった。共産党員と同様、反政府活動家は都市から地方に逃れ、そこで勢力が拡大することになる。また報道統制によりマスコミ弾圧も行われた。, 戒厳令布告から解除される9年間に兵員23万人の国軍は3倍に規模が拡大した。また、同時に何千という民兵団が組織された。マルコス政権下における軍事的なサポートは、Rolex 12.と呼ばれる側近たち、中でも中枢を牛耳ったのが、情報機関のファビアン・ベール、国軍参謀部のフアン・ポンセ・エンリレ、警察部門のフィデル・ラモスであった。もっとも、1986年の人民革命では、エンリレとラモスは反マルコス陣営に寝返ることになる。, 1978年4月、戒厳令布告後初めて国民議会選挙が行われた。 この選挙で、イメルダ・マルコス大統領夫人(イメルダは単なる大統領夫人に終わらず、自ら企画したマニラ文化センターをオープンさせるなど、国政にも介入した。1974年、自ら訪中して貿易拡大書簡に調印。1975年、マニラ首都圏知事にも就任、1978年には環境住居相に就任している)率いる与党・新社会運動(Kilusang Bagong Lipunan)は、全161議席中、151議席を獲得し圧勝、この他に議席を獲得したのは、僅か2つの地域政党のみであった。ベビグノ・アキノ率いる野党・LABANを始め野党は議席を獲得できず、大規模な不正行為を主張しマルコスを非難した。野党は1980年の地方選挙、1981年の国民議会選挙をボイコットする。, 1981年1月に予定されるローマ教皇ヨハネ・パウロ2世のフィリピン訪問を前にして、布告 No. if (window.showTocToggle) { var tocShowText = "表示"; var tocHideText = "非表示"; showTocToggle(); } フェルディナンド・エドラリン・マルコス (Ferdinand Edralin Marcos、1917年9月11日 - 1989年9月28日)はフィリピン共和国第10代大統領(在職1965年12月30日 - 1986年2月25日)。独裁者として人民革命によって打倒された。, //