この章では合計3回にわたって 帝国主義とアジアの民族運動 について勉強していきます。, 1つ前の章では 中国・朝鮮の植民地化 について勉強しました。この章では、アジアの中でも インド・東南アジア・西アジア に注目し、各地で行われた 民族運動 について勉強します。, 最初に注目するのは インド です。インドは1877年、イギリスの植民地 インド帝国 となり、以来イギリスによる支配が行われていました。, イギリスは、インドの 知識人 たちを味方にすることでインド統治に役立てようとしました。さらにはインドにおける 宗教対立 を引き起こすことで、イギリスに対する抵抗運動を弱めようと画策しました。, 第1回の授業では、イギリスがインドに対してとった 狡猾な統治政策 と、そんなイギリスへの不満が高まる形で発生した インドの反英運動 について学習します。, 第2回の授業では、舞台は 東南アジア に移ります。イギリス・フランス・オランダ・スペインといった国々に植民地化されていた東南アジアで見られた 民族運動 に注目します。, 東南アジアの中でも注目するのは ベトナム・インドネシア・フィリピン です。フィリピンは当初 スペイン による支配を受けていたのですが、スペインから独立したかと思いきや 新たな国に支配されることになりました。 いったいどの国が干渉してきたのでしょうか?, 第3回の授業では、舞台は 西アジア に移ります。 オスマン帝国 や イラン にスポットライトをあててみていきます。, オスマン帝国とイランでは、共に 立憲運動 が起こりました。憲法をつくって国を立て直し、外国勢力を追い出そうという動きが見られたのです。, このように、帝国主義諸国の進出先は、1つ前の章で紹介した 中国 や 朝鮮 だけではありませんでした。アジアの各地域で欧米列強による支配が見られたのです。, ただし、アジア諸国は黙って支配されていたわけではありません。自由を勝ち取るべく、各地で 民族運動 が展開されたのです。, これから計3回の授業を通して、帝国主義とアジアの民族運動について勉強していきましょう!, 「世界史を楽しく,わかりやすく教えたい!」をモットーにストーリー性のある授業展開で、歴史上の人物や国が当時何を考え、どう動いたかを感情を込めて伝える。, 会員登録をクリックまたはタップすると、利用規約・プライバシーポリシーに同意したものとみなします。ご利用のメールサービスで @try-it.jp からのメールの受信を許可して下さい。詳しくはこちらをご覧ください。. 西アジアの民族運動 [] オスマン帝国の改革 []. 会員登録をクリックまたはタップすると、利用規約及びプライバシーポリシーに同意したものとみなします。ご利用のメールサービスで @try-it.jp からのメールの受信を許可して下さい。詳しくはこちらをご覧ください。, オスマン帝国では、憲法復活を目指す「 青年トルコ人 」が結成されました。その中心となった組織は「 統一と進歩団 」でした。, 日露戦争の影響もあり、1908年には 青年トルコ革命 が発生しました。「青年トルコ人」は政府にせまって ミドハト憲法 を復活させ、皇帝 アブデュル=ハミト2世 を退位に追い込みました。, 19世紀の思想家 アフガーニー は、イスラーム教徒の団結と欧米諸国への抵抗を訴える パン=イスラーム主義 を提唱しました。, 1905年には、日露戦争の影響もあって イラン立憲革命 が起こりました。イギリス・ロシアの侵略やこれに従属する政府に民衆が反発したのです。, イラン立憲革命の中で仮憲法が制定され、立憲運動は順調に進んでいくかに思われました。しかし1907年の 英露協商 によって、イランの北部はロシアに、南部はイギリスに支配されました。, 会員登録をクリックまたはタップすると、利用規約・プライバシーポリシーに同意したものとみなします。ご利用のメールサービスで @try-it.jp からのメールの受信を許可して下さい。詳しくはこちらをご覧ください。. オスマン帝国. Try IT(トライイット)の帝国主義とアジアの民族運動をみる視点の映像授業ページです。Try IT(トライイット)は、実力派講師陣による永久0円の映像授業サービスです。更に、スマホを振る(トライイットする)ことにより「わからない」をなくすことが出来ます。 単元: 民族運動, キーワード: 西アジアの民族運動,アフガーニー,パン=イスラーム主義,青年トルコ革命,ミドハト憲法,タバコ=ボイコット運動,立憲革命 歴史6-4 アジアの民族運動(まとめ) ポイント解説 第一次世界大戦後、 朝鮮 では 三・一独立運動 、 中国 では 五・四運動 といった、日本や帝国主義に反対する大規模な運動が起こりました。 1839年、アブデュル・メジト1世は、改革としてギュルハネ勅令を出し、司法・行政・財政などの西洋化の改革であるタンジマートを開始した。これらの改革は、法治主義による中央集権化をめざすものであった。 13.3.6 東南アジアにおける民族運動の形成 世界史の教科書を最初から最後まで 14.1.1 バルカン半島の危機 世界史の教科書を最初から最後まで こちらでもピックアップされています 14~20世紀初頭まで存在したイスラム教スンナ派の大帝国。小アジアからバルカン半島、地中海にも進出、君主であるスルタンが教主カリフの地位を兼ねる体制をとり、イスラーム教世界の盟主として16世紀に全盛期を迎え、ヨーロッパ=キリスト教世界に大きな脅威を与えた。 単元: 民族運動, キーワード: 西アジアの民族運動,ムスタファ=ケマル,トルコ共和国,ケマル=アタテュルク,ローザンヌ条約,ワフド党,イブン=サウード,サウジアラビア王国,レザー=ハーン,パフレヴィー朝 ... 世界史a 西アジアの民族運動; このように、日英同盟は帝国主義的世界分割協定、軍事同盟という性格を強めたが、それに対する民族運動も活発化した。 1905年、インドではベンガル分割令に反対する国民会議派の運動が始まり、反植民地運動が新たな時期を迎える。 Copyright Trygroup Inc. All Rights Reserved. 西アジアのトルコ、イラン、イラク、アルメニアにまたがって居住する民族。古代以来の長い歴史を持つが、民族国家を形成したことはなかった。第一次世界大戦後、いったん独立が承認されたが、結局は実現できなかった。 西アジアのトルコ、イラン、イラク、アルメニアにまたがって居住する民族。古代以来の長い歴史を持つが、民族国家を形成したことはなかった。第一次世界大戦後、いったん独立が承認されたが、結局は実現できなかった。 会員登録をクリックまたはタップすると、利用規約及びプライバシーポリシーに同意したものとみなします。ご利用のメールサービスで @try-it.jp からのメールの受信を許可して下さい。詳しくはこちらをご覧ください。, 第34章「帝国主義とアジアの民族運動」のガイダンス授業です。 東南アジア・西アジアの民族運動で押さえておきたいポイント ※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。 東南アジアの民族運動 ・長い間スペインに支配されていたフィリピンでは、海外留学からの帰国者が改革運動を指導 歴史6-4 アジアの民族運動(まとめ) ポイント解説 第一次世界大戦後、 朝鮮 では 三・一独立運動 、 中国 では 五・四運動 といった、日本や帝国主義に反対する大規模な運動が起こりました。 Try IT(トライイット)の西アジアの民族運動の練習の映像授業ページです。Try IT(トライイット)は、実力派講師陣による永久0円の映像授業サービスです。更に、スマホを振る(トライイットする)ことにより「わからない」をなくすことが出来ます。 単元: 民族運動, キーワード: 西アジアの民族運動,アフガーニー,パン=イスラーム主義,青年トルコ革命,ミドハト憲法,タバコ=ボイコット運動,立憲革命 Try IT(トライイット)の帝国主義とアジアの民族運動をみる視点の映像授業ページです。Try IT(トライイット)は、実力派講師陣による永久0円の映像授業サービスです。更に、スマホを振る(トライイットする)ことにより「わからない」をなくすことが出来ます。 みんなの世界史 2020/03/02 20:45. Copyright Trygroup Inc. All Rights Reserved. 西アジアが不安定となった理由は、広範囲を支配していたオスマン帝国やの国力が弱まったことにある。, そこにヨーロッパの強国が自分の国の勢力を広げようとしてつけ込んでくると、オスマン帝国内にいたさまざまな出自の人々の思いが、ヨーロッパ各国の思惑に利用され、従来はなかったような問題が次々に生まれていった。, すると、従来は西アジアになかったような思想も流入。たとえば、西ヨーロッパで生まれた「ひとつの国はひとつの国民でまとまるべきだ」という意識や「国は憲法を持ち、“法の下の平等”の原則で国民をおさめるべきだ」という考え方だ。, ヨーロッパの進出が激しくなると、西アジア諸国の人々の中にも「自分たちは◯◯人だ」という意識が生み出されていく。そのときに問題になるのは、「まとまり」の基本単位を「民族(言語や文化)」に置くべきか、それとも「イスラーム教」に置くべきかということだ。, このうち「イスラーム教徒」としてまとまるべきだと考えた運動家にはアフガーニー(1838〜97年)がいる。彼はイランに生まれ、ヨーロッパに対抗するためイスラーム教を改革する必要があると説き、帝国主義に反対する革命家・扇動家として活躍。彼の考え方は、エジプトの反イギリス抵抗運動であるウラービー運動や、イランのカージャール朝でおきたタバコ=ボイコット運動にも大きな影響を与えた。その一番弟子はエジプト生まれのムハンマド=アブドゥフ(1849〜1905年)。, 彼はウラービー運動に直接関わって国外追放となり、パリで師匠とともに雑誌『固き絆』を出版。西洋の文明に直面したイスラームがとるべき道は、ひたすら“伝統”にこだわることではなく、新しい時代に合わせてイスラームを改革することではないかと考えた。, 一方、ロシア帝国との度重なる戦争に悩まされていたオスマン帝国では、スルタン(君主)のアブデュル=ハミト2世が、露土戦争のドサクサにまぎれ、できたばかりの憲法を停止(1878年)。, 権力を集中し、「イスラーム教徒はひとつ」(パン=イスラーム主義)と訴え、オスマン帝国のパワーを維持しようとしていた。, なにせオスマン帝国には、イスラーム教徒多数派のスンナ派の精神的支柱であるカリフがいる。そのカリフを守る存在として、オスマン帝国のスルタンは重要だというわけだ。, しかし、これに対し若手の知識人や将校のグループ「青年トルコ人」は、スルタンの専制政治に反対。「統一と進歩委員会」を結成する。, 彼らは1908年に政府にせまり憲法を復活させ、政権をにぎることに成功。これを青年トルコ革命というよ。, しかしその後、国内・国外の情勢の変化にともない、「統一と進歩団」による政府も政治権力をすすめるようになってしまう。不安定な政治情勢の中で、国内の世論も分裂。さまざまな意見が飛び交い政治的なグループが結成され、「トルコ人の国をつくろう」というトルコ民族主義が成長していくことになるよ。, 一方、カージャール朝の支配下にあったイランでは、19世紀末からアフガーニー(1838〜97年)の呼びかけにこたえて、君主(シャー)のナーセロッディーン=シャー, がイギリスの会社にあたえたタバコの独占利権に反対するタバコ=ボイコット運動が展開。, この運動でイラン人の民族意識は高まり、カージャール朝の君主が権力をほしいままにしていることに対し「憲法をつくるべきだ」という運動もおこった。こうして1906年、イランで最初の国民議会が開かれ、フランスの人権宣言の影響を受けた憲法が公布される。これをイラン立憲革命といい、少なからず、日本がロシアに勝利した日露戦争の影響を受けているよ。, しかし、イランが強国となっては困るのは、進出を進めようとしていたロシア帝国とイギリスだ。1907年に英露協商でイランの勢力圏を取り決めた2か国は、イランの国内情勢に介入。, 世界史&日本史、世界&日本をつなぐ高校教員。 通訳案内士(英語)合格。歴史を深く、わかりやすく翻訳。関心:SDGs/旅/教育/AL/エンタメ。世界史のまとめ―全時代・全地域を輪切りに. 13.3.7 西アジアの民族運動と立憲運動 世界史の教科書を最初から最後まで 14.