大切な人を守る為に、友と戦うことに! 最近Twitterに力を入れ始めたハルです! 今回は「二ノ国」を見たので、あらすじと感想を紹介します。 結論から言うと、普通でした!笑 5段階評価で3ぐらいかな? ちなみに、株式会社レベルファイブの二の国シリーズを映画化したものらしいです。 美容・ダイエット・旅行・映画・ゲーム・投資など幅広い分野について紹介していきます。. ユウと親友の“ハル”役に新田真剣佑、ユウとハルの幼なじみ“コトナ”と二ノ国の姫“アーシャ”役に永野芽郁が決定 2019.06.11 05:00 (日本国政府は、支那及び印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及び警察力を撤収すべし), 実際には開戦当日1941年12月8日午前11時40分に「宣戦の詔書」が裁可され、直ちに煥発された, 嶋田海相は東京裁判の宣誓供述書において、ハル・ノートを受けて海軍が戦争を決意せざるを得なかったかの如く述べ、これを痛烈に非難しているが、実際に嶋田が戦争を決意したのは1941年の10月30日である, たとえば、『機密戦争日誌』には「昨年本日は米国か対日最後通牒を発したるの日なり」(1942年11月27日付)との記述がある, 題は「大詔を拝して」。12月8日午前11時45分の「宣戦の詔書」渙発発表後、間もなく行われた。「彼(米国)は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、却て英、蘭、支と聯合して支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し、帝国の一方的譲歩を強要してまいりました」とある, 北岡は「日中戦争によってアメリカが失い、あるいは脅かされていた現実の権益はわずかなものであった。問題は中国の統一と独立という理念であり、いつかアメリカの巨大な利益が生み出されるかもしれないという想像上の利益であった。日本の中国侵略がかりに成功したとしても、それでアメリカが致命的なものを失うわけではない」, この一節の原出典は米国人現代史家アルバート・ノックの回想録"Memories of a Superfluous Man"であり、東郷外相の手記にも引用されている, ホワイト事件の発端は、ソ連のスパイであるエリザベス・ベントレイの告発による。ホワイトの死後もソ連のスパイであったウイタカー・チェンバーズが、ホワイトはソ連のスパイであったことを証言している。, ルーズベルトが(ソ連のスパイであった)ホワイト作成のハル・ノートを日本に渡せと言った際、「我々は日本をして最初の一発を撃たせるのだ」と言った, 加藤陽子 『戦争まで ―歴史を決めた交渉と日本の失敗』 朝日出版社、2016年、319-326頁, 加藤陽子 『戦争まで ―歴史を決めた交渉と日本の失敗』 朝日出版社、2016年、351-357頁, 塩崎弘明「「諒解案」から「ハル・ノート」まで」『国際政治』第71号、有斐閣、1982年、144-146頁, 岩畔豪雄 『昭和陸軍 謀略秘史』 日本経済新聞出版社、2015年、295-297頁, 細谷千博 「三国同盟と日ソ中立条約」『太平洋戦争への道〈新装版〉 5-三国同盟・日ソ中立条約』 朝日新聞社、1987年、279-301頁, 細谷千博 「三国同盟と日ソ中立条約」『太平洋戦争への道〈新装版〉 5-三国同盟・日ソ中立条約』 朝日新聞社、1987年、269-277頁, 波多野澄雄 「日中戦争と日米交渉―事変の「解決」とは?」『決定版 日中戦争』 新潮社〈新潮新書〉、2018年、202-209頁, 近衛文麿 『最後の御前会議/戦後欧米見聞録-近衛文麿手記集成』 中央公論新社〈中公文庫〉、2015年、31-33頁, 近衛文麿 『最後の御前会議/戦後欧米見聞録-近衛文麿手記集成』 中央公論新社〈中公文庫〉、2015年、34-35頁, ロナルド・ルウィン 『日本の暗号を解読せよ―日米暗号戦史』 白須英子訳、草思社、1988年、20-49頁, 森山優 「戦前期における日本の暗号解読能力に関する基礎研究 」『国際関係・比較文化研究.』3巻1号、 静岡県立大学国際関係学部、2004年、17-33頁, 臼井勝美 『新版 日中戦争』 中央公論新社〈中公新書〉、2000年、104-106,144頁, 波多野澄雄 「日中戦争と日米交渉―事変の「解決」とは?」『決定版 日中戦争』 新潮社〈新潮新書〉、2018年、209-210頁, 花田智之 「ノモンハン事件・日ソ中立条約」『昭和史講義―最新研究で見る戦争への道』 筒井清忠編、筑摩書房〈ちくま新書〉、2015年、186-190頁, 森山優 「日米交渉から開戦へ」『昭和史講義―最新研究で見る戦争への道』 筒井清忠編、筑摩書房〈ちくま新書〉、2015年、231頁, 近衛文麿 『最後の御前会議/戦後欧米見聞録-近衛文麿手記集成』 中央公論新社〈中公文庫〉、2015年、55-56頁, 近衛文麿 『最後の御前会議/戦後欧米見聞録-近衛文麿手記集成』 中央公論新社〈中公文庫〉、2015年、59-62頁, 細谷千博 「三国同盟と日ソ中立条約」『太平洋戦争への道〈新装版〉 5-三国同盟・日ソ中立条約』 朝日新聞社、1987年、318-325頁, 森山優 『日米開戦と情報戦』 講談社〈講談社現代新書〉、2016年、216-219頁, 塩崎弘明 「オランダと日英米戦争への道」『第二次世界大戦 ―発生と拡大―』 軍事史学会編、錦正社、1990年、172頁, 森山優 『日米開戦と情報戦』 講談社〈講談社現代新書〉、2016年、252-254頁, 森山優 『日米開戦と情報戦』 講談社〈講談社現代新書〉、2016年、231-237頁, 加藤陽子 『戦争まで ―歴史を決めた交渉と日本の失敗』 朝日出版社、2016年、379-387頁, 森山優 「南部仏印進駐と関東軍」『昭和史講義2―専門研究者が見る戦争への道』 筒井清忠編、筑摩書房〈ちくま新書〉、2016年、219-220頁, 野村吉三郎 『米国に使して -日米交渉の回顧』 岩波書店、1946年、125-129頁, 防衛庁防衛研修所戦史室 『大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯 <2>』 朝雲新聞社、1979年、476頁, 波多野澄雄 「日中戦争と日米交渉―事変の「解決」とは?」『決定版 日中戦争』 新潮社〈新潮新書〉、2018年、227頁, 野村実 「日本の開戦経緯 ―総理一任考―」『軍事史学』第26巻第2号、軍事史学会編、錦正社、1990年、59頁, 富田健治 『敗戦日本の内側 ―近衛公の思い出』 古今書院、1962年、184-185頁, 近衛文麿 『最後の御前会議/戦後欧米見聞録-近衛文麿手記集成』 中央公論新社〈中公文庫〉、2015年、88-89頁, 近衛文麿 『最後の御前会議/戦後欧米見聞録-近衛文麿手記集成』 中央公論新社〈中公文庫〉、2015年、93頁, 野村実 「日本の開戦経緯 ―総理一任考―」『軍事史学』第26巻第2号、軍事史学会編、錦正社、1990年、63頁, 野村実 「海軍の太平洋戦争開戦決意」『史学』第56巻第4号、慶應義塾大学、1987年、423-428頁, 野村実 「海軍の太平洋戦争開戦決意」『史学』第56巻第4号、慶應義塾大学、1987年、420,436頁, 野村実 「海軍の太平洋戦争開戦決意」『史学』第56巻第4号、慶應義塾大学、1987年、436-437頁, 稲葉正夫、小林龍夫、島田俊彦、角田順 編著『太平洋戦争への道 -開戦外交史〈新装版〉 別巻資料編』 朝日新聞社、1988年、304-305頁, 稲葉正夫、小林龍夫、島田俊彦、角田順 編著『太平洋戦争への道 -開戦外交史〈新装版〉 別巻資料編』 朝日新聞社、1988年、505頁, 武田知己「東条英機 ―昭和の悲劇の体現者」『昭和史講義【軍人編】』筒井清忠編、筑摩書房〈ちくま新書〉、2018年、47頁, 野村実 「日本の開戦経緯 ―総理一任考―」『軍事史学』第26巻第2号、軍事史学会編、錦正社、1990年、67頁, 森山優 『日米開戦と情報戦』 講談社〈講談社現代新書〉、2016年、272-275頁, 森山優 『日米開戦と情報戦』 講談社〈講談社現代新書〉、2016年、266-270,272-275頁, 野村吉三郎 『米国に使して -日米交渉の回顧』 岩波書店、1946年、150-151頁, 野村吉三郎 『米国に使して -日米交渉の回顧』 岩波書店、1946年、159-160頁, 大本営陸軍部戦争指導班原編 防衛研究所図書館所蔵 軍事史学会編 『大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌』 錦正社、1998年、192頁, 田中新一 『田中作戦部長の証言―大戦突入の真相』 松下芳男編、芙蓉書房、1978年、329頁, NHK取材班編 『その時歴史が動いた27』 KTC中央出版、2004年、94-97頁, NHK取材班編 『その時歴史が動いた27』 KTC中央出版、2004年、109-110頁, 大本営陸軍部戦争指導班原編 防衛研究所図書館所蔵 軍事史学会編 『大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌』 錦正社、1998年、306頁, 参謀本部編 『杉山メモ -大本営・政府連絡会議等筆記』 原書房〈明治百年史叢書〉、1967年、543頁, 実松譲 『真珠湾までの365日 ―真珠湾攻撃 その背景と謀略』 光人社〈光人社NF文庫〉、1995年、312-314頁, 昭和ニュース事典編纂委員会、毎日コミュニケーションズ 『昭和ニュース事典 第7巻 昭和14年ー昭和16年』 毎日コミュニケーションズ、1994年、583-584頁, 昭和ニュース事典編纂委員会, 毎日コミュニケーションズ 『昭和ニュース事典 第7巻 昭和14年-昭和16年』 毎日コミュニケーションズ、1994年、588-592頁, 野村実 「海軍の太平洋戦争開戦決意」『史学』第56巻第4号、慶應義塾大学、1987年、435-436頁, 山本智之 『主戦か講和か ―帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮社〈新潮選書〉、2013年、81-95頁, 牛村圭『文明の裁きを超えて』 中央公論新社〈中公叢書〉、2001年、189-195頁, 中村粲 監修 ラダビノッド・パール著 『東京裁判・原典・英文版 パール判決書』 国書刊行会、1999年、, 東京裁判研究会 『共同研究 パール判決書』 東京裁判刊行会、1966年、610-611頁, 秦郁彦 「スティネット『欺瞞の日』の欺瞞」『検証・真珠湾の謎と真実 - ルーズベルトは知っていたか』 秦郁彦編、中央公論新社〈中公文庫〉、2011年、272-273頁, 田中英道 『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』 展転社、2011年、35-36頁, 須藤眞志 「真珠湾陰謀説の系譜―ルーズベルトの対日政策と修正主義」『検証・真珠湾の謎と真実 - ルーズベルトは知っていたか』 秦郁彦編、中央公論新社〈中公文庫〉、2011年、67-68頁, w:Henry L. Stimson#Secretary of War (2nd term), 「日本外交文書デジタルアーカイブ 日米交渉―1941年― 下巻」 八 「ハル・ノート」受領から開戦, 昭和16年(1941年)6月22日野村大使・ハル米国務長官会談、ハルは、オーラル・ステートメントを手交、また、5月31日案(日本時間6月1日手交)のアメリカ政府訂正案を提示, 昭和十六年十一月四日東郷大臣発在米野村大使宛公電第七二六号(別電、大至急、館長符号)(原議), 昭和十六年十一月四日東郷大臣発在米野村大使宛公電第七二七号(別電、大至急、館長符号)(原議), 昭和16年(1941年)11月26日野村・来栖両大使、本国に対し、状況打開のため昭和天皇とルーズヴェルト米大統領との親電交換について意見具申, 昭和16年(1941年)12月6日野村・来栖両大使、本国に対し、ルーズヴェルト米大統領発天皇宛親電が発電されたことを報告(資料2に原文及び日本語訳あり), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ハル・ノート&oldid=80185002, 日本は米国と戦争する義務を有していないが、米国がドイツに宣戦すれば事態は変わるかもしれない, 日米両国は、相互に隣接する太平洋地域の強国であることを承認し、共同の努力により太平洋の平和を樹立し、友好的諒解を速やかに達成する。, 日中戦争について、米国大統領が次の条件を容認し、日本政府がこれを保証したときは、大統領は, 太平洋平和維持のため、相互に他を脅威する海空力の配備をせず、日本は米国の希望に応じ、自国船舶を太平洋に就役させる。会談妥結後、両国は儀礼的に艦隊を派遣し合い、太平洋の平和到来を祝す。, 日本の南西太平洋における発展は武力に訴えず、平和的手段によってのみ行われるという保障のもとに、米国は日本の石油・ゴム・錫・ニッケルなど重要資源の獲得に協力する。, 太平洋の政治的安定に関し両国は、A.太平洋地域に対する欧州諸国の進出を容認しない。 B.両国は, 三国同盟の軍事義務について、諒解案での「積極的に攻撃された時のみ」という文言を削除。諒解案では、米国の対独参戦は自衛である(積極的な攻撃ではない)ため、日本に参戦義務はないとの趣旨が含意されていた。しかし、松岡案では日本の参戦義務はあくまで三国同盟の規定に沿う、つまり、米国がドイツを攻撃すれば発動という趣旨が強調される形となった。, 支那事変について「日米両国の容認した条件での和平の勧告をする」という条項のすべてを削除。松岡案では, 日本の南方進出について「武力に訴える事なく」の文言を削除。松岡案では、万一の場合の武力南進に含みを持たせた。, 中国問題については和平の基本条件(善隣友好、無併合、無賠償、無差別待遇の原則による経済協力、日中間協定による速やかな撤兵、防共駐兵については今後の検討課題とすることなど)を前提として、大統領が蔣介石政権に日本と交渉するようサジェストする, 太平洋地域における日米両国の活動は平和的手段および国際通商上の無差別待遇の原則により行われ、必要資源を得られるよう協力する, 新通商条約では必要物資の相互供給は保障、ただし自国の安全と自衛のためには制限が認められる, 蔣介石への和平勧告及び日中和平交渉は、その基本条件を日本政府から米国政府へ提議させ、米国政府がこれを是認するという建前を誇示すること, 日本は欧州戦争拡大の場合、三国条約上の義務および自国の安全防衛のため独自の立場をとること, 日中和平の基本条件は近衛三原則を基準とし、アメリカは休戦及び和平交渉の勧告をするが、和平条件への介入は許されないこと, (日本政府の確約事項)日本は仏印以上に進駐しない、日中戦争解決後仏印から撤兵、フィリピンの中立を保障、東亜における米国の必要資源獲得に協力, (米国政府の確約事項)米国は南西太平洋の軍備拡大中止、日本の蘭印資源獲得に協力、日米通商関係の復活、日中交渉の橋渡しと撤兵後の日本の仏印における特殊地位の承認, 仏印を基地として武力進出しない、北方(ソ連)に対しても正当な理由なしに軍事行動に訴えない, 日本は日支間の全面的正常関係の回復に努め、それが実現した後は日支間協定に従いできる限り速やかに撤兵する用意あり, 南西大西洋における日本の活動は平和的かつ通商上の無差別待遇の原則に従って行い、米国が必要とする資源の生産獲得に協力する, 日米間の正常な通商関係を回復させるために必要な措置を講ずる、これに関し日米相互に合意することを条件に凍結令をただちに撤廃する, 米国の海空軍が時とともに飛躍的に向上すること、特に来年秋以降は米海軍の軍備は日本海軍を凌駕すること, 北方作戦(対ソ戦)は冬期の大きな作戦が至難で、この期間に速やかに南方作戦を終え、明年春以降の北方作戦に備える必要があること, (附)欧州戦争に対する態度は、防護と自衛の観念により、又米国の欧州戦争参戦の場合の三国条約に対する日本の解釈及び行動は専ら自主的に行う。ただし、三国条約に基く日本の義務は変更しない, (欧州戦争に対する両国政府の態度)適当な時期に協力して速やかな世界平和回復に努力。それまでは両国政府は防護と自衛の見地で行動。米国参戦の場合における日本の三国同盟に対する解釈、義務履行は専ら自主的に行う。, (日中間の和平解決に対する措置)米国は重慶政権に日本と交渉するよう橋渡しし、かつ、その間日本の支那事変解決に関する措置及び努力に支障を与える行動に出ない。日本は支那事変解決に関する基礎的条件が近衛声明及び既に実施されている汪兆銘政権との条約(日華基本条約)と矛盾しないこと、並びに日中間の経済協力は平和的手段により、国際通商関係における無差別の原則及び隣接国間における自然的特殊緊密関係の原則において行われ、第三国の公正な経済活動は排除されないことを闡明する。, (南西太平洋に関する経済問題) 平和的、無差別待遇の原則のもと、国際通商および投資の条件創設に努力する。石油などの特殊物資の取得については、無差別待遇を基礎に関係諸国との協定及びその実行に関して協力する。, (太平洋地域における政治的安定に関する方針) 日本は仏印を基地として近接地域(中国を除く)に武力進出しない。太平洋地域における公正な平和確立後仏印から撤兵する。米国は南西太平洋地域の軍事的措置を軽減する。両国はタイ・蘭印の主権及び領土を尊重し、独立後のフィリピン中立化協定を締結。米国はフィリピンにおける日本人に対する無差別待遇を保障する。, 通商無差別問題に関しては、日本は無差別原則が、全世界に適用されるにおいては、太平洋全域、即ち中国においても、本原則の行われることを承認する, 三国同盟問題に関しては、日本は自衛権の解釈をみだりに拡大する意図なきことを明瞭にする。同盟条約の解釈及び履行は日本の自ら決定するところにより行動する, 乙案は支那問題に触れることなく仏印の兵を撤するもので、国防的見地から国をあやまることになる, 日本は日中和平成立又は太平洋地域の公正な平和確立後、仏印から撤兵。本協定成立後、日本は南部仏印駐留の兵力を北部仏印に移動させる用意があることを宣す, イギリス、フランス、日本、中国、アメリカの合同委員会の構成する政府のもとでインドシナの利益の擁護, 中国で流通している軍票、円、傀儡の紙幣を、中国、日本、英、米の各財務省で合意したレートで円貨幣に交換する, ソ連が極東の前線から相応の残留部隊を除き、軍を撤収させるという条件で、警察力として必要な少数の師団を除き満州から日本軍を撤収させる, 現在の戦争資材の生産量の4分の3を限度として米国に売却すること。価格は原価+20%を基準とする, 米国、中国、英国、オランダ領インドシナ、フィリピンとの間に10年間の不可侵条約を交渉する, 日本は南部仏印から即時撤兵し、北部仏印の兵力を1941年7月26日時点の兵力に制限する。その兵力は25,000人以下とする, 紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則, ハル四原則の採択を日本に迫るのは「現実を無視し一国の独善的主張を相手国に強要するが如き態度」で交渉の成立を促進するものではないこと, 第二項1の多辺的不可侵条約は「徒に集団的平和機構の旧構想を追ふの結果、東亜の実情と遊離せるもの」であること, 第二項9については「合衆国が欧州戦争参入の場合に於ける帝国の三国条約上の義務履行を牽制せんとする意図をもって提案せるものと認めらるる」ため受諾できないこと, 第二項2は「東亜の事態を紛糾に導きたる最大原因の一たる九国条約類似の体制を、新たに仏領印度支那に拡張せんとするもの」で容認できないこと, 支那(中国)からの全面撤兵及び通商無差別原則の無条件適用は「何れも支那の現実を無視し、東亜の安定勢力たる帝国の地位を殲滅せんとするもの」であり、南京政府否認は「交渉の基礎を根底より覆すものといふべく」、アメリカが日中和平及び東亜の平和回復を阻害する意思があることを実証していること, ウォーカーと井川のルートで、最初の野村-ハル会談が実現し、井川は野村からも信頼を得ることが出来たこと. ハル・ノート(Hull note)は、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日(日本時間11月27日[1][注釈 1])にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。正式には合衆国及日本国間協定ノ基礎概略(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)と称する[2]。, 冒頭に「厳秘 一時的且拘束力ナシ」[3](Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)という但し書きがあり[注釈 2]、アメリカ政府の正式な提案ではなく、ハルの「覚書」という側面がある[7]。日本で「ハル・ノート」という通称が用いられるようになった時期は明確ではないが、戦後の極東国際軍事裁判前後だと考えられる[8]。アメリカでは1941年11月26日アメリカ提案[9]、あるいは "Ten Points" とも呼ばれている[10]。, 1940年(昭和15年)頃の日米関係は、日本側の北部仏印進駐、日独伊三国同盟の締結、汪兆銘政権の承認と、それらに対抗した米国側の対日経済制裁(航空機用ガソリンや屑鉄の禁輸など)により悪化の一途をたどっていた[11]。重要資源のほとんどをアメリカに依存する日本にとって対米関係の修復は急務であり[12]、またアメリカにとっては対英援助の本格化に伴い、太平洋方面で日本との対立を避ける必要があった[13]。このような状況下で、両国の関係改善を模索するため日米交渉が始まることとなった。, 日米交渉は民間外交を起点として、その後に正規の外交ルートに乗せられたという経緯を持つ。その発端は、1940年11月25日、アメリカからメリノール宣教会のジェームズ・ウォルシュ司教とジェームズ・ドラウト神父が来日したことであった[14]。両師は元ブラジル大使沢田節蔵と、近衛文麿首相に近い産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事井川忠雄に宛てた紹介状をそれぞれ持参しており、彼らの紹介で各方面の要人と面談した(その中には松岡洋右外相や武藤章軍務局長ら日本の高官も含まれていた)[14][15][注釈 3]。両師の目的は日米関係改善にあり、その背後にはフランクリン・ルーズベルト大統領の側近であるフランク・C・ウォーカー(英語版)郵政長官がいた[14][注釈 4]。, 翌1941年(昭和16年)1月に帰国したウォルシュとドラウトは、23日、ハル国務長官、ウォーカー、ルーズベルトに経過を報告し、「日本提案」なる覚書を提出した[18]。その内容は三国同盟の破棄、中国における停戦、極東モンロー主義の承認、米国との経済関係の回復というものであったが、これは正式な日本提案ではなく、両師が日本側の意見をまとめたに過ぎないものであった[18]。このときのルーズベルトの態度は明らかではないが、ハルは懐疑的であり、反対にウォーカーは乗り気であった[19]。ウォーカーとウォルシュ、ドラウトの構想は日米協定を結ぶことにより日本政府内の穏健派を支持し、日本の政策を対独結合から対米協調へと転換させようとするものであったが、ハル(および国務省)は日本では穏健派が軍部を抑えることはありえないと判断しており、温度差があったのである[20]。, ともかく、ルーズベルトとハルは、両師が私的に日本側と接触することを容認しつつ、政府としての行動は新任の野村吉三郎大使着任まで待つこととした[21][注釈 5](野村の着任は2月11日)。その背景には、アメリカのアドルフ・ヒトラーの脅威に対する世界戦略、すなわち大西洋第一主義(ドイツ打倒を優先)・対日戦回避があり、ルーズベルトもハルも日米会談の門戸を開けておくことに異存はなかった[23][21]。, 一方、帰米後のウォルシュ、ドラウトの日米国交調整工作は井川を介して、近衛首相、武藤軍務局長、松岡外相に伝えられていた[24]。この工作は近衛と武藤の関心を引き、米国側の意向を瀬踏みするため、2月に井川の渡米がした[25][26]。そして、後続として武藤の部下の岩畔豪雄軍事課長が3月に渡米することも内定した[注釈 6]。武藤、岩畔の思惑は、アメリカを利用した支那事変の解決にあり、日本にもアメリカと「太平洋の平和」を取引する動機があったのである[25][28]。, 27日、井川はウォルシュ、ドラウトと再会し、両師からウォーカーを紹介された。ウォーカーは日米関係が微妙に状況では民間人有志の外交が有効であると井川に説き[29]、ルーズベルトとハルへの連絡役を買って出て「三者で協議を進めて日米国交を正常化する方法を決めてほしい」と激励した[30]。しかし、そもそも両師は井川の政治的立場を見誤っており(井川を近衛首相の非公式代表と捉えていたが、井川は近衛から米国側の意向を報告してほしいと依頼されたに過ぎなかった)[31]、ウォーカーも井川を正式な権限を与えられている日本の全権代表と誤解してルーズベルトに報告するなど、日米交渉には当初からコミュニケーション・ギャップがつきまとっていた[32][33][注釈 7]。なお、28日に井川は野村大使を訪問し経過を報告している[30]。, 井川とドラウトは協定案の作成に着手し、3月13日にはウォーカーからハルに三国同盟からの日本の脱退、太平洋の平和の保障、中国の門戸開放、中国の政治的安定、軍事的・政治的侵略の不可、共産主義拡大阻止などの内容について作業中との覚書が提出された[35]。ウォーカーは、日本政府が井川・ドラウトの協定案に同意しているかのように報告したが、その内容は日本政府の立場と相異なり、井川の独走と言えるものであった[35]。, 井川・ドラウトの協定案作成に公的な性格を付与したのが岩畔豪雄であった[36]。岩畔の派遣は、日米国交調整には支那事変に通じた人材が必要との野村大使の要請に陸軍が応えたものであるが[37]、陸軍首脳がウォルシュ、ドラウトの工作について、岩畔に密命を与えていたかは不明である[38][39]。しかし、アメリカ政府は陸軍の実力者の訪米とあって、何らかの密命を帯びているものと解し、岩畔に対し好意的な対応をとった[40]。, 3月20日、岩畔は井川と再会し、協定案の説明を受けたが、これに同意せず修正を加えることにした[41]。特に三国同盟の問題については、アメリカの目的が日本の三国同盟脱退なら交渉に入る可能性はないとの立場で米国側との協議に臨んでいる[42]。ウォルシュ、ドラウト、岩畔、井川の活動は、国務省から "John Doe Associates"(正体不明の連中)と呼ばれることになるが、彼らこそが日米交渉の担い手となるのであった[27]。, 岩畔とドラウトは4月2日から5日にかけて協定案の手直しを行い(通訳は井川が務めた)、できあがった草案は野村大使とウォーカー郵政長官に届けられた[43]。, 岩畔の回想によると、米国側との協議の過程で、ドラウトから「もし日本が三国同盟から脱退すれば、アメリカは日ソ戦が起きた場合に日本を援助する」という一文を明記するとの提案があったという[43](もっとも、岩畔はそれを却下したが[44])。また、支那事変終決後の日本軍の駐兵問題については次のようなやり取りがあった。岩畔が米国も北京議定書に基づき中国に駐兵していることを指摘すると、なるべく早く撤兵するつもりであると逃げ、さらに岩畔が米国のパナマ駐兵を問いただすと、それは租借地でパナマ領ではないと弁解し、では事変解決後に条約で租借地を作ってもよいのかと反問すると、それは困ると応じたという[44](結局、日本軍の駐兵を案の中に明記することはできなかった[45])。なお、満州国承認問題については米国側から異議は出なかったとのことである[44]。, この草案は日米双方が修正を加えたうえで、4月9日に一応の完成を見た[43]。これを受け取ったハル国務長官は3日間にわたって国務省極東部と検討したが、「提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかりであった」とその内容に失望したという[46]。しかし、ハルは「一部には全然承諾できない点もあるけれども、そのまま受け入れることのできる点、また修正も加えて同意できる点もある」という結論を下し、これを交渉の糸口にすることとした[46]。, その後、草案は双方の若干の修正を経て、4月16日に「日米諒解案」として決着した[47]。内容的には岩畔の主張がかなり盛り込まれていたが、あくまで叩き台としての試案であり、「なんらの拘束力もない」と断り書きがあった[47]。, 他方、松岡外相は自らが進める四国協商(三国同盟+ソ連)構想の実現、日ソ国交の調整などを目的に3月12日から4月22日にかけてソ連、同盟国のドイツ、イタリアを訪れていた[48]。, もっとも、四国協商に関しては、前年に行われた独ソ間の交渉が決裂していたため、ドイツ側は松岡の思惑とは異なり、四国協商の可能性を強く否定した[48](ヒトラーはすでに対ソ攻撃を決意し、バルバロッサ作戦を極秘裏に命令していた[49])。ドイツ側が要請したのは、日本のシンガポール攻撃、すなわち対英参戦であり、イギリスの敗北は時間の問題である、日本の軍事行動はアメリカの参戦をも防げると執拗であったが、松岡がシンガポール攻撃の言質を与えることはなかった[48]。, 一方、ソ連との交渉は4月13日の日ソ中立条約調印で結実した。難航した交渉をまとめた松岡は、日ソ接近により日本の国際的地位を強化し、来る対米交渉へ向けて「力の威圧」による外交の道筋をつけたのであった[48](ハル国務長官が日米交渉を開始した背景には、この日ソ中立条約の威力があったとの指摘もある[50])。その後、松岡は日独伊ソ四国の圧力で、アメリカに蔣介石政権援助を停止させ、支那事変はあくまで日中間で解決するという方針を追求することになるが、これはアメリカの仲介によって支那事変を解決するという「日米諒解案」とは相容れないものであった[51]。, また、松岡は訪欧中に日米交渉の布石として、駐ソ米国大使スタインハートと会談し、ルーズベルト大統領への伝言を依頼していた。往路と帰路に行われた二度の会談と松岡の「厳私信」の手紙の内容を摘記すると以下のようになる[52][53]。, 松岡は東南アジアの安全の保証と中国の問題を取引しようとしたのではないかと推察される[53]。しかし、3月14日の野村大使とルーズベルトの最初の正式会談で、ルーズベルトが三国同盟への強い懸念を示していたのにもかかわらず[54]、松岡が対米参戦を示唆したのは重要な点であった[53]。いずれにせよ、これらの内容はスタインハートからハルに報告されたが、ハルもルーズベルトもさしたる関心を示すことはなかった[53]。, 国務省では、日米諒解案は後退と受け止められていたため、諒解案とは別にアメリカの国際政策原則を明確にする方針をとった[55]。これがいわゆるハル四原則である。, 四原則の核心は軍事行動の否定であり[57]、日中戦争から北部仏印進駐までの日本の軍事的政策の放棄を内包するものであった[58](ただし、満州国については影響せず、将来の問題について適用される旨をハルは野村に説明している[57])。また、3.は自由貿易の推進であり(ハルは自由貿易論者であった)、日米交渉においてハルは中国への適用を要求するとともに、日本が軍事力で中国における米国の既得権益を侵害し、自由な経済活動を制限していると非難することになる[59]。, ハルは野村に対して、四原則の受け入れを前提に、「日本政府がこれ(諒解案)を承認してわが方に提案すれば、われわれの交渉開始の基礎ができることになろう」と述べた[60]。野村は3.については前提条件とせず、今後の会談で討議してもよいのではないかと示唆したが、ハルはこれを受け付けなかった[61]。, しかし、野村はこの四原則を添付せずに日米諒解案を日本政府に送った[62](後日、野村は話が進まないことを恐れて「これを押さえた」(5月8日野村電)と説明したが、結果的に米国の真意を歪めたことになった[57])。, 4月18日、日米諒解案の電報が日本に届いた。しかし、ここで重大な誤解が生じ、近衛首相は諒解案を「米国案」として受けとった[62][注釈 8]。『近衛手記』に、その夜、緊急に大本営政府連絡懇談会を招集して「米国の提案を議題にして協議した」[68]との記述があるように、近衛は明らかに諒解案の「交渉試案」という意味を履き違えたとみられる[69] 。, 諒解案には東條英機陸相も武藤軍務局長も、海軍の岡敬純軍務局長も「大へんなハシャギ方の歓びであった」というが[70]、「主義上賛成」の電報を打とうという動きは抑えられ、返事は松岡外相の帰国を待ってからとなった[62][注釈 9]。なお、『近衛手記』によれば、「この米国案を受諾することは支那事変処理の最捷径である」などの意見から「大体受諾すべしとの論に傾いた」が、その一方でドイツとの信義を強調する意見があったとのことである[68]。, 東條や武藤は、諒解案を泥沼化した支那事変解決の機会ととらえて乗り気となり、陸軍省としては「ともかく交渉開始に同意」と決定した[73]。また陸軍参謀本部においても、「三国同盟の精神に背馳せざる限度に於いて対米国交調整に任ずべき大体の方向」で意見が一致し、最終的にはこの線に沿って陸海軍間の合意がなった[73]。, ただし、中国からの撤兵問題については、交渉に前向きな軍務局でさえ撤兵に反対の立場であり、日本人の経済活動保護の観点から駐兵は必要と考えていたことは、交渉の前途に影を落とすことになった[74]。中国における日本の占領地経営の実体は、「進出した日本の大企業、中小資本を問わず、小売商人、大小の国策企業の職員の生活にいたるまで、日本の経済体制は占領地支配と密着しており、しかもそのすべては、日本軍駐屯という厳然たる事実によってはじめて可能な状態にあった」[75]のであり、このことが撤兵問題を困難なものにしたのであった。, 4月22日に帰国した松岡外相は、日米諒解案がスタインハート工作の返事ではなく、自分のまったく関知しないルートの話であったことを知り、不機嫌になった[76]。その夜の連絡懇談会では、2週間か1、2か月ほど考えさせてほしいと述べ、諒解案を取り合おうとはしなかった[76]。『近衛手記』によると、松岡は、米国が第一次世界大戦中に石井・ランシング協定を結んで後顧の憂いを除いておきながら、戦後にこれを破棄した先例を挙げて、本提案は米国の悪意七分善意三分と解すると論じたという[77]。この松岡の対米認識について、松岡が恐れたのは第一次大戦の再現であり、米国が参戦して独伊が敗北すれば、たとえ日米妥協が成立していても米国に手のひらを返される可能性があったとの指摘がある[78]。, その後、松岡は日米諒解案を「陸海軍案ヨリ更ニ強硬」(『機密戦争日誌』[注釈 10](5月3日付))な内容へと大幅に修正し、5月3日の連絡懇談会に提示した[80]。, 三原則は、アメリカが蔣介石に圧力をかけて日中戦争解決に貢献すること、アメリカが三国同盟を承認すること、ドイツへの信義と協調を意味するため、これはアメリカの方針―中国からの日本軍撤兵、三国同盟の骨抜き、欧州戦争における英国援助と、真っ向から対立するものであった[82]。松岡の狙いは、さらに強気に出てアメリカの欧州戦争参戦を阻止することにあり、「独が起った場合には同盟条約によれば日本も当然起つのを正論なりと思う。しかし外交からいえばそうも行かぬ。米を参戦せしめず、また米をして支那から手を引かせる、というのが今度自分がやろうとする考えである」(5月8日連絡懇談会)とした[83]。, 同日、松岡は、野村大使にハル国務長官宛のオーラルステートメント(口頭文書)を打電しているが、その内容は松岡の強気の交渉姿勢を示すものであった[84]。, 5月7日、野村はハルと会談し、松岡のオーラルステートメントを読み上げたが、多くの間違いがあると断りを入れるほどであった(野村はハルの同意を得てオーラルステートメントの手交を取りやめている)[85]。ハルは、ヒトラーの制覇が七つの海に及ぶことを忍ぶことはできない、米国の権益擁護のために10年でも20年でも抵抗する決心であると野村に語った[84]。また、野村は松岡の指示により日米中立条約を提議したが、ハルは「それは4月9日の文書に含まれた提案とは全然異なった事柄である」と一蹴した[85]。, なお、野村によれば、ハルは日米交渉の開始について力を込めて督促したとのことである[86]。, ハルはこの時の野村とのやり取りについて、松岡の電報の内容をすでに知っていたと回想しており、そのことを野村に悟られないように注意していたという[87]。事実、アメリカ側は1940年9月にはパープル暗号(外務省が使用していた暗号)で組まれた外交電の解読に成功しており[88]、日米交渉においては日本側の外交電のほとんどを解読していた[87](ただし、日本が暗号戦に完敗していたというのは俗説で、森山優の研究によれば「日本がアメリカ国務省の暗号を最高強度に至るまで解読していたことは確実」「解読の規模に関しても、駐日、在中の主要な国務省電報のほとんどを解読していたと考えても差し支えない」[89]という)。, 5月12日、野村大使は、松岡外相による日米諒解案に対する修正案をハルに提示した[90]。この修正案は日本の公式提案となっており、ハルは「日米交渉の基礎はこの5月12日におかれた」としている[91]。, 要するに、アメリカの参戦を阻止すること、支那事変は汪兆銘政権と結んでいた日華基本条約(陸軍の要求する共同防共のための日本軍の華北・内蒙古への駐兵、治安維持のための駐兵などが定められていた)に基づく日中間の直接交渉によって解決することを主眼にした提案であった[51]。, 6月21日(日本時間6月22日)、アメリカ側から松岡修正案に対して正式な回答が出された[94](本文には “Unofficial, Exploratory and without Commitment(非公式、予備的段階にして拘束力なし)” の但し書きがあり、アメリカ政府の公式提案とは呼べないものであるとしていた[95])。以後、ハル・ノート提示までアメリカはこの提案に固執することとなる[96]。, また、中国問題については、日本の要求した蔣介石への援助停止、南京政府と重慶政府の合流などには触れられず、さらに付属のオーラル・ステートメントでは、日本政府の三国同盟堅持声明や華北・内蒙古における軍隊駐屯を非難しており、全体としてはハル・ノートに通じる厳しい内容であった[97]。, 外務省顧問の斎藤良衛は米国案の内容を、満州の中国への復帰、治安駐兵および防共駐兵の否認、通商無差別待遇の原則の適用による「新秩序」建設の否定[注釈 11]、南京政府の取り消しを示唆、間接的表現ながら三国同盟からの脱退を要求などと解釈し、日本の提案をことごとく否定しているものとした[100][101]。5月12日松岡修正案、6月21日米国案によって日米諒解案は松岡とハルの双方から否定されたうえ、両案の懸隔に松岡も「外交をやれといっても、米との工作はこれ以上続かぬと思う」と述べたという[102]。, なお、野村大使がこの案を受け取った9時間後の6月22日、独ソ開戦のニュースがあった[103]。独ソ戦は、松岡外相の日独伊ソ四国協商構想の崩壊を意味し(もっとも松岡訪欧以前に独ソ間の外交交渉は決裂しており、四国協商は幻想であった)[104]、またアメリカにとっては対日妥協から強硬路線へ舵を切るきっかけとなった[105]。この6月21日米国案と独ソ開戦の関係については、アメリカは独ソ開戦について確度の高い情報を掴んでおり、日本の情勢が不利になるタイミングを見計らってこの案を出してきたとの見方もある[106][107]。, 6月21日米国案のハル国務長官のオーラルステートメントには、不幸にして日本の指導者の中にドイツ支持者がいると指摘し、名指しこそしていないものの、松岡外相がいる限り交渉はまとまらないことを意味するくだりがあった[106][109]。これを内閣改造を要求するものと受取った松岡は激怒し、オーラル・ステートメントを取り次いだ野村大使をも批判した[110] [109]。, 日本政府と軍部は独ソ戦への対応に追われたため、連絡懇談会で6月21日米国案の検討に着手したの7月10日のことであった[103]。松岡は斎藤顧問を出席させ、「相呼応してほとんど全面的な日米交渉反対論」を展開したという[111]。, と結論づけ、そのうえで、オーラルステートメントの受理を峻拒すること、交渉を続けるなら5月の松岡修正案を堅持しつつ少許の米国案字句を取り入れるほかないが、これでは日米交渉の妥結の見込みはないこと、また交渉打ち切りの場合は時期および方法を慎重に考慮する必要があることを述べた[112]。, 7月12日の連絡懇談会においても、松岡は「吾輩はステートメントを拒否することと、対米交渉はこれ以上継続できぬことをここに提議する」と述べた[113]。杉山元参謀総長は米国に断絶のような口吻をもらすのは適当ではない、交渉の余地を残してはどうかと松岡に意見したが、松岡はアメリカ人の性格から弱く出るとつけあがるから、この際強く出るべきだとはねつけた[114]。, もっとも、この3点は6月21日米国案で削除された項目であり、これらを復活させて交渉の余地を残すというのは互譲の精神に欠けたものであった[115]。松岡は「何か余地がありますか、(ほかに)何を(譲歩に)入れますか」「南方に兵力を使用せぬというならば(米も)聞くだろうが、ほかのことで何か(譲歩が)あるか」「交渉を続けるならば(米から)蹴って蹴って蹴りのめされてから、はじめて交渉をやめるようになるだろう」と反発したが、会議の結論は、オーラルステートメントは拒否するが、交渉は松岡修正案を再修正して続行することに決まった[115]。, 日本の対案作成は連絡懇談会終了後から始まったが、陸海軍からの督促を松岡がサボタージュしたため、対案が完成したのは7月14日となった[116]。しかも松岡は「まずオーラルステートメント拒否の訓電を発し、しかる後2、3日経ってから、日本の対案を発電すべき」と主張し、それではアメリカ側の悪感情を招き交渉が決裂する恐れがある、少なくとも拒否の訓電と日本の対案は同時に発電すべきとする近衛首相や陸海軍と対立した[117]。, 7月14日深夜、松岡は自説を固持してオーラルステートメントの撤回要求のみを打電させたが、翌15日の朝には近衛の意を受けた寺崎太郎アメリカ局長が、松岡に無断で日本案を追いかけて打電するなど事態は紛糾した[118]。事ここに至り、関係閣僚は松岡では重大な外交問題は処理できないとの結論で一致し、16日、近衛は松岡を罷免させるため内閣を総辞職した[119][118]。, 7月17日、日本の要求に対してハルは簡単にオーラルステートメントを撤回した[114]。しかし、この日の第3次近衛内閣発足で松岡は外相に登用されず英米派の豊田貞次郎がなったため、ハルの要求が結果として通った[120]。近衛は豊田の外相就任を「日米交渉を何とかして成立せしめんとする余の熱意の表れ」としている[119]。, 仏印南部に兵力を進駐させる案は5月ごろから検討されていたが、仏印の冷淡な対日態度、蘭印との経済交渉の行き詰まり、独ソ開戦必至の報(6月6日大島電)などの要素から陸海軍で南部仏印進駐論が台頭する[121]。仏印の掌握および蘭印に圧力をかけて石油等の資源を手に入れることがその狙いであった[122]。また、南部仏印は蘭印、英領マレー・シンガポール攻略に不可欠な要衝という軍事的理由も大きかった[123][注釈 12]。, 松岡外相は南進すれば英米を刺激するとして執拗に反対を続けていたが、6月25日、松岡の反対を抑える形で南部仏印進駐を定めた「南方施策促進に関する件」が決定された[121]。さらに7月2日には、独ソ戦についても「密かに対ソ武力的準備を整え自主的に対処す」と定めた「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が御前会議で決定された[125][注釈 13]。, なお、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」には、「南方施策促進に関する件」の「目的達成の為、対英米戦を辞せず」との文言があるが、これは対英米戦の決心がない限り、仏印進駐のための交渉には応じられないとする松岡を納得させるための作文に過ぎなかった[122]。, 7月19日、豊田外相はヴィシー政府に南部仏印進駐に関する最後的な通牒を送り、22日に話し合いが成立、25日には日本軍は海南島三亜を出港し、28日から南部仏印への上陸を開始した[127]。, 日本の南部仏印進駐の措置について、アメリカはマジック情報などにより事前に把握しており[128]、23日、サムナー・ウェルズ国務次官は日米交渉の中止を野村大使に告げた[129]。さらにアメリカは24日の新聞発表で、日本の南進について、「我が国の安全保障に重大なる問題を及ぼすものと深く認識する」との声明を出した[130]。日本軍の中国駐兵については安全保障に関する問題と見なしていなかったアメリカも、日本軍の南部仏印進駐については、これを東南アジア侵攻への最初の一歩と受け取ったのであった[130]。, ルーズベルト大統領は、対抗措置としてフィリピン防衛の強化および対日資産凍結をとることにした[132]。ただし、ハル国務長官や米海軍が、強硬な経済制裁は日本の蘭印侵攻、ひいては日米衝突を招くと反対していたこともあり、ルーズベルトは資産凍結が全面禁輸をもたらさないことを確約していたという[132]。, 24日午後の閣議でルーズベルトは在米日本資産の凍結を決定した[133][134]。その後、野村大使を引見したルーズベルトは、日本への石油の禁輸を強く主張する世論を説得してきたが、いまやその論拠は失われつつある、日本が石油獲得のためオランダ、イギリスと戦争をすればアメリカは援英政策をとっているため事態は重大となると述べた。そのうえで、もし日本軍が仏印から撤兵すれば、中国、イギリス、オランダ、アメリカの各政府はその中立を保障すると仏印の中立化を提案した[135][136](ルーズベルトは各国が自由公平に仏印の物資を入手する方法があれば尽力するとも述べている[136])。, 7月26日、アメリカは在米日本資産の凍結を実施した(イギリス、蘭印もこれに続き、日蘭民間石油協定は停止された)[137][134][注釈 14]。, 7月27日、本国から大統領提案の通報を受けたジョセフ・グルー駐日アメリカ大使は「これは日本が自称する困難と、これまた日本が自称する自国の安全をおびやかすABCD国家の包囲的手段とからぬけ出す、理屈にあった方法を、日本に提供している」[141]と考え、豊田外相と会談、大統領提案の受け入れを要請した[142]。グルーは、日本がこの提案を受諾するか否かが太平洋の平和を決定するとして懸命に説得を行ったが、豊田はあまりに重大な提案なので即答できないなどと消極的反応を示した[143]。なお、グルーが、日本の現在の政策はドイツの圧力によって行われていると米国民一般に信じられていることを指摘すると、豊田はドイツは日本の政策決定には無関係だと強く否定したという[144]。, 8月1日、アメリカは対日貿易制限の具体的内容を発表し、「米国の国防の許す範囲内で、日本が35~36年度に購入したと同量までの低質ガソリン、原油および潤滑油については輸出許可証および凍結資金解除証を発行。その他の通商は、原棉と食糧を除いて、全面的に不許可」とした[145]。しかし、その後、対日石油輸出や石油取引支払いのための凍結資金の解除は実際には許可されず、アメリカは石油の全面禁輸に踏み切ることになった[145](そもそもアメリカは全面禁輸令など出していないことには注意を要する[146])。, 石油の輸出管理システムが構築されていたにもかかわらずなぜ全面禁輸になったのか、これには世論の圧力を原因とする説、対日強硬派の官僚たちの不作為により管理システムが機能しなかったという説(ルーズベルトやハルは9月まで石油の禁輸を知らなかったとされる)、ディーン・アチソン国務次官補が独断で資金の凍結を解除しなかったという説、日本の「南進」「北進」を抑止するためのルーズベルトの確たる意志とする説、あるいはヘンリー・モーゲンソー財務長官の影響を指摘する説などがあり、議論が続いている[146][注釈 15]。アメリカが全面禁輸を発動した理由は現在も謎である[148]。, 日本側はアメリカの強硬な態度を想定しておらず、佐藤賢了軍務課長は、日本軍はすでに北部仏印に進駐しており、それが南部に進むだけで日米戦争にはならないと判断していたと述べている[149]。また、7月25日の『機密戦争日誌』には「当班、仏印進駐に止まる限り、禁輸なしと確信す」とあり、資産凍結が伝わった26日にも「当班全面禁輸とは見ず、米はせざるべしと判断す」と記されているが、全面禁輸を受け26日の日誌の欄外に「本件第二〇班の判断は誤算なり。参謀本部亦然り」と注記した[150]。, 当時、日本には石油の備蓄が平時で2年分、戦時で1年半分しかなく、石油がなくなる前に産油地帯の蘭印を攻略するという選択肢が台頭することになる[151][152]。そして、蘭印攻略と資源の輸送ルートを考慮すると、当時米領だったフィリピンおよびグアムの攻略も不可欠であり、それは必然的に対米開戦を意味する[153]。結果的に、南部仏印進駐と対日全面禁輸は太平洋戦争への岐路となった[152]。, 8月6日、仏印中立化の提案に対する日本の回答が野村大使からハル国務長官に提示された[154]。, 仏印以上に進駐しないというのは日本としては譲歩ではあるが、南部仏印に駐留したままでは説得力にかけるうえ、仏印中立化どころか日本に特権的な地位を求めるなどあまりに虫のいい提案であった[154]。この提案にハルは悲観的な見通しを示し、日本の行動に深く失望したことを表明したうえで、日本が征服の政策を捨てない限り、話し合いの余地はないと取り合わなかった[155]。米国の回答は8日にハルから示されたが、これは日本の提案は大統領提案への回答としては不充分であると厳しく指摘するものであった[154]。, 8月4日、近衛首相は日米首脳会談の決意を東條陸相、及川古志郎海相に告げた[156][157]。及川は全面的賛成を表明し[158]、東條は会談がまとまらなかった場合にも内閣を放り出さないこと、対米戦の決意をもって臨むことを条件に賛同した[159][160]。近衛の意図は、昭和天皇から全権を委任されて、ルーズベルト大統領と直談判し、軍部を通り越して直接天皇の裁可を仰ぐことで事態を解決することだったとされる[161] 。, 8月7日、近衛は昭和天皇から首脳会談を速やかに取り運ぶようとの督促を受け、野村大使に宛て「(日米国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は此の際日米責任者直接会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにありと信ず」として、ルーズベルト大統領との首脳会談を提案するよう訓電した[162]。首脳会談の申し入れは野村からハル国務長官に行われたが(ルーズベルト大統領はウィンストン・チャーチル英首相との大西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった[159]。, 8月17日、大西洋会談から戻ったルーズベルトは野村に対日警告を読み上げた[注釈 16]。, その一方で、ルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、ホノルルに行くのは無理だが、ジュノーではどうかと返事をした[159]。, 8月26日、大本営政府連絡会議の可決を経て、近衛は「先ず両首脳直接会見して必ずしも従来の事務的商議に拘泥することなく大所高所より日米両国間に存在する太平洋全般に亙る重要問題を討議し、時局救済の可能性ありや否やを検討することが喫緊の必要事にして細目の如きは首脳会談後必要に応じ主務当局に交渉せしめて可なり」との「近衛メッセージ」を発出した[165]。28日に野村から「近衛メッセージ」を手交されたルーズベルトはこれを大いに賞賛し、3日ほど会談しようと述べた[166][167]。しかし、同夜に行われた野村とハルの会談において、ハルは首脳会談で話がまとまらなければ真に憂慮する結果を来すとして、あらかじめ大体の話をまとめてから首脳会談で最終的に決定する形式にしたいとの意向を示した[168]。, 9月3日(米時間)、アメリカ側は覚書を手交し、首脳会談には原則的に賛成だが、協定の根本問題について予備会談を設けること、ハル四原則および6月21日米国案により討議を行うべきことを主張した[169]。時を同じくして、日本側では新たな対米提案を検討しており(外務省案「日米交渉に関する件」)、9月3日(日本時間)の連絡会議でこれを採択していた[170]。「日米交渉に関する件」は翌4日に豊田外相からグルー駐日大使に、6日(米時間)には野村大使からハル国務長官に対米新提案をして手交された(日付をとって9月6日付日本案と呼ばれた)[171]。, 豊田は野村への説明で、今回の新提案は「(米側の主張する)『予備的討議』に対する我方回答とも結果的には相成る次第」「米の希望にミートし得る最大限を示すもの」と自信を見せ、日本側としては原則として両首脳の会談における政治的解決を待つ意向であるとした[176]。, 6日の会談で野村はハルに、米国側が高度の「ステーツマンシップ」を発揮して首脳会談の速やかな実現のため協力することを要望したが、10日の会談でハルは、日本の新提案は「今迄の話合いの点を非常に『ナロウダウン』し居る様」と不満を示した[177]。ハルは撤兵における「日支間協定」の内容や経済活動における「公正な基礎」あるいは「“南西”太平洋」といった制約的文言に疑問を呈しており、曖昧な表現で交渉を切り抜けようとした外務省の目論見は外れたのであった[178]。, 9月27日、日本側はドイツとの関係に誤解を生じる犠牲を払っても日米首脳会議を行いたいと打電し、輸送の船舶と随員も決定済みで、時期は10月10日または10月15日が好都合と提案した[179]。しかし、10月2日のハル国務長官より手交された回答は原則論を崩さないもので、日米両政府があらかじめ了解に達していない以上、首脳会談は危険であるとして実質的に拒否した[180]。これを受け野村は日本政府はさぞかし失望するであろうと述べて引き取り、「日米交渉は遂にデッド・ロックとなりたる観あるも打開の道は必ずしも絶無でもなかろう」と状況報告せざるを得なかった[181]。, 日米首脳会談について、豊田外相は「行けば必ずやりとげる積りで(中国からの)撤兵の件も何も出先で決めて御裁可を仰ぐ覚悟であった」と回想しており、海軍省の岡軍務局長は「近衛がルーズベルトに会ってしまえばその場で始末をつけるだろうから、ともかく行けばなんとかなるだろう」との考えであった[182]。, アメリカ側では、近衛首相や豊田から首脳会談開催への尽力を依頼されたグルー駐日大使が、日米の危機を回避できる機会だとして、ハルおよび国務省に具申を重ねていた[183]。しかし、グルーの進言はほぼ相手にされず、影響力を持ったのは国務省政治顧問スタンレー・ホーンベックの進言であった[184]。ホーンベックは首脳会談に強く反対しており、「たとえ会談が開かれたとしても、近衛公はなにもできないか、まったくぼんやりしたコミットメントしかできないであろう」と見ていた[185]。ホーンベックの対日認識は、日本は4年にわたる支那事変で消耗している、日本のリーダーたちは仲間争いをして不安定であることを理由に「日本に関しては危険はない」というものであった[186]。そして、日本に対して経済的、軍事的な圧力を加える力の外交を続ければ「時をかせぐ最良の機会となり、太平洋の領域に交戦状態を拡散させることを防ぐ最良の可能性を持っており、それは結局三国同盟の崩壊を期待できる」「短期的にも長期的にも戦争への可能性は減るであろう」との持論を展開していた[187]。, ハルもまた首脳会談は第二のミュンヘン会談になるとして反対の立場であり、当初は乗り気を見せたルーズベルト大統領もハルの助言を取り入れたという[188] 。, この間、日本の国策は対米開戦へと大きく傾斜していた。8月16日、海軍側から陸軍側へ「帝国国策遂行方針」と呼ばれる新たな国策案が提示された。その骨子は「戦争を決意することなく戦争準備を進め、この間外交を行い、外交打開の途なきに於いては実力を発動」するというというもので、海軍の狙いは臨戦態勢を整えることにあった[189][注釈 18]。, しかし、ここで海軍と陸軍の開戦プロセスの違いが表面化する。海軍の戦争準備は、おもに艦隊の編成を戦時編成に切り替えることであり、「戦争決意」がなくとも柔軟に対応できた。それに対し陸軍の戦争準備は、内地で大量の兵士を動員して、大陸へ海上輸送することであり、「戦争決意」なしに本格的な戦争準備はできないというのが陸軍側の論理であった[191]。こうして陸軍側(おもに参謀本部)は「戦争決意」を明記した修正案(「帝国国策遂行要領」と呼ばれる)を提示し、海軍側との折衝を重ねることとなる[191]。海軍側は戦争決意に強硬に反対していたが、結局、「戦争を辞せざる決意」との文言で妥協が成立し、戦争決意の時期は10月上旬となった(8月30日成立の「帝国国策遂行要領」陸海軍案の案文は「対英米戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」「外交交渉により十月上旬に至るも尚我が要求を貫徹し得ざる場合に於ては、直ちに対米開戦を決意す」)[191]。, 要は「『戦争準備だけは完成して開戦・避戦は最後の瞬間に決定すればよい』と考える海軍と、『開戦決意を明定しなければ戦争準備が進められない』との立場に立つ陸軍が、机上で作文した」のが実態であったが、のちの日本の国策を著しく制限することになった[192][注釈 19]。, 9月3日、「帝国国策遂行要領」の陸海軍案が大本営政府連絡会議に提出された。しかし、及川海相が案文に異議を唱えたため、結局「外交交渉により十月上旬頃に至るも尚我が要求を“貫徹し得る目途なき”場合に於ては、直ちに対米開戦を決意す」との修正が加わり、交渉継続の余地を残すような表現となった(『機密戦争日誌』には「之により本案骨抜きとみるべし。十月上旬に於て更に大なる議論となるべし」と記されている)[193]。, 審議の過程で、永野修身軍令部総長が日本は物資が減りつつあり、これに反し敵側はだんだん強くなりつつある、今ならば戦勝のチャンスがあるが、時とともになくなる恐れがあると述べ、杉山参謀総長は動員などで時間がかかるので戦争準備完了の目途は10月下旬とし、なるべく早く決意したいとした[194]。, この戦争準備を10月下旬とする理由については、「九月六日御前会議質疑応答資料」によると、, の3点が挙げられている[195]。ちなみに、戦争の見通しについては「質疑応答資料」には次のようにある。, なお、「帝国国策遂行要領」には、別紙として、「対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項」がつけられていた[197][198][199]。, これらの外交条件は、経済制裁を受けて窮地にある日本としては明らかに過大要求であり[200]、アメリカにとっては受け入れがたい内容であった[201]。しかし日本としても欧米の帝国主義に囲まれている中での最善のあがきであった。, 連絡会議は僅か1回7時間の審議で案文を可決し[199]、9月6日御前会議において「帝国国策遂行要領」は正式決定となった。なお、御前会議では、昭和天皇が異例の発言を行う一幕があり、明治天皇の御製を読み上げて、統帥部に外交が主で戦争は従であると釘を刺した[202][203](ただし、天皇は案文自体への干渉は避けている)[204]。, その後、これまでの日本の提案が錯綜していたこと、御前会議から2週間が経っても日米交渉の目途が立たないことから、日本側の最後的態度を決定して米国側に提示することとなった[205]。案文は9月20日連絡会議で決定され、25日にグルー大使に手交された(ワシントンでは27日に手交)[205][206]。, この提案は参謀本部の強行意見が反映されているため[注釈 21]、譲歩と呼べそうなのは2.(米国の対独参戦が日本の自動参戦を意味しないの意)くらいであり[210]、「依然として従来の主張を変えないのはただただ譲歩すべきは米国側であることを発想の前提としている」[211]内容であった。, 野村大使は「今更新提案は困る」と不満を示し、難点を列挙しつつ、特に汪兆銘政権との条約を基礎とする日中和平では米国を満足させえない、駐兵問題で交渉決裂の公算大であることを進言した(9月28日野村電。なお、この電報と前後して在米陸海軍武官からの報告電があったが、いずれも「駐兵問題に絡まり交渉見込み薄」「支那駐屯の放棄なき限り交渉成立の望みなきこと明瞭」という内容であった)[212][注釈 22]。, 10月2日、ハルは「太平洋の平和維持のためには一時の取繕いの了解では不可で明快な協定を欲する」と述べ、回答案を野村に手交した。それはハル四原則を持ちだしたうえで、日本が「日中和平基礎条件」で不確定期間にわたる特定地域への駐兵を主張していることに異議を唱え、三国条約については日本の立場をさらに闡明するよう求めるものであった[214]。, 10月2日付の米国の回答案を受け、陸軍は5日に開催した省部局部長会議において「外交の目途なし。速に開戦決意の御前会議を奏請するを要す」との結論に達したが、同日に行われた海軍省部首脳会議は「首相の堅き決意の下に明六日首相陸相会談、交渉の余地ありとして時期の遷延、条件の緩和につき談合することとす」と決まった[215]。翌6日、陸海部局長会議において、海軍の岡軍務局長は駐兵条件を緩和すれば交渉の目途ありと主張し、陸海軍の対立があらわとなった[216]。, その後、東條陸相と杉山参謀総長は、交渉の目途なし、ハル四原則は承認しない、駐兵条件に関しては表現方法も含めて一切変更しない、もし政府が外交の見込みありとするならば15日を限度にこれを行ってもよいとの方針を確定し、海軍と近衛首相を説得することを申し合わせた[217]。他方、海軍省部首脳会議は「撤兵問題の為日米戦ふは愚の骨頂なり。外交により事態を解決すべし」との交渉継続論に達した[218]。しかし、及川海相が「それでは陸軍と喧嘩する気で争うても良うございますか」と決意を示して了承を求めたところ、永野軍令部総長が異議を唱え、他の出席者も沈黙したため、海軍の意思統一はできなかった[218]。, 近衛は10月5日および7日に東條と会談し、撤兵を原則とし、その運用で駐兵の実質をとることはできないかと説得したが、東條に絶対にできないと拒絶され、物別れに終わった[219]。7日の東條と及川の会談も、交渉の目途を巡って意見の一致はみなかったが、東條が戦争の自信を問いただしたところ、及川は「それはない」と言明し、「統帥部の自信とは緒戦の勝利の意。二、三年後のことは検討中」と打ち明けた[220]。東條は「仮に海軍に自信がないというならば考えなおさなければならない。勿論重大な責任において変更すべきものは変更しなければならない」と9月6日御前会議決定の責任問題に言及した[220]。, さらに翌8日の東條―及川会談では、東條は「最後に悲壮なる面持ちにて」次のように述べたという[221]。, 10月12日、近衛首相は荻外荘に陸海外三相及び鈴木貞一企画院総裁を招き、和戦に関する最後的会談を行った。主な発言は以下のとおりである[224]。, また、特に駐兵問題について、東條は「駐兵問題は陸軍としては一歩も譲れない」「支那事変の終末を駐兵に求める必要がある」「(駐兵の)所要期間は永久の考えなり」とした[224]。結局、荻外荘会談においても何ら結論を得ることが出来なかったため、鈴木は近衛に対し「陛下に御願いして9月6日の決定を一旦白紙に返して、対米交渉を継続することにしてはどうか」と進言した[225]。, この時期、日本が日米戦争という破局を避けるには、海軍首脳が避戦の態度を明確にするか、陸軍首脳が中国からの撤兵を勇断するかのどちらかであったが[226]、いずれも現実のものにはならなかった。, 前者については、荻外荘会談の前日、武藤軍務局長から富田健治内閣書記官長を介して海軍側に、戦争はできないと明言してほしい、そうすれば陸軍部内の主戦論を抑えるとの要請があった[227]。また、富田も海軍の岡軍務局長と同道して、及川海相に戦争回避、交渉継続の意志を明言するよう下交渉を行っていたが、及川は軍の立場として戦争をできる、できないは言えないとして、あくまで「首相一任」の態度を取り続けたのであった[228][227][注釈 24]。, 後者については、東條陸相の次の発言が注目できる。10月14日の閣議前、東條は近衛首相と会談し、駐兵問題について再考を求められたがこれを拒否し、閣議では持論を「興奮的態度で力説した」という[230]。, 東條の発言は、この問題を一般閣僚にも知らせる必要があるとの趣旨でなされたが、閣僚は誰も反駁しなかったという[231]。, 10月14日夜、閣議での東條陸相の発言により、近衛首相は総辞職を決意した[232]。近衛が鈴木企画院総裁を介して、総辞職後の政局の収拾について東條の考えを聞くと、東條は東久邇宮稔彦王を後継内閣の首相に推薦した[232]。, 『近衛手記』によると、東條の意見は「段々其後探る処によると海軍が戦争を欲しないようである。…海軍がさういふやうに肚がきまらないならば、9月6日の御前会議は根本的に覆へる」「御前会議に列席した首相はじめ陸海大臣も統帥部の総長も、皆輔弼の責を充分に尽くさなかったことになるのであるから、此の際は全部辞職して今までのことをご破算にして、もう一度案を練り直すといふこと以外にないと思ふ。それには陸海軍を抑えてもう一度此の案を練り直すといふ力のあるものは、今臣下にはない。だから、どうしても後継内閣の首班には今度は宮様に出て頂くより以外に途はないと思ふ」[233]ということであった[232]。東久邇宮は対米戦反対論者であったため、近衛も東條の意見に賛成した[232]。, 翌15日から16日にかけ、近衛、東條、鈴木、木戸幸一内大臣の間で後継内閣の首相について折衝が行われたが、木戸は難問が未解決のまま打開策を皇族にお願いするのは絶対に不可、また皇族内閣で戦争に突入すれば皇室が国民の怨府となる恐れがあることを理由に東久邇宮内閣に反対した[234]。木戸の反対を伝えられた近衛は、閣僚から辞表を取りまとめ、第三次近衛内閣は総辞職した[234]。, 10月17日、重臣会議が開かれ、木戸の主張により東條を後継内閣の首相(兼陸相)に推挙することになった[235]。木戸が東條を指名したのは、天皇に対する忠誠心が人一倍強いためだといわれる[236][注釈 25]。東條は昭和天皇から陸軍の主戦論および駐兵固守の態度についてお叱りを受けるものと覚悟して参内したが、予想に反して組閣の大命を受けた[235]。さらに東條は昭和天皇から陸海軍の協力を一層密にするよう命じられ、続いて参内した及川海相も陸海軍の協力を命じられた[235]。また、東條、及川には木戸から9月6日御前会議決定の白紙還元の聖旨が伝えられた[235]。, 東條内閣は対米戦争に踏み切った内閣として悪名高いが、むしろ近衛内閣よりも積極的に対米交渉を行ったと見ることもできる[238]。東條は非戦論に傾いており、外務大臣には平和主義で知られた東郷茂徳を迎えた[236][注釈 26]。また、東條は大蔵大臣候補の賀屋興宣との入閣交渉では「できるだけ日米交渉に努力して、戦争にならないように平和に解決できるように努力したい」と述べており[240]、及川海相の後任候補となった嶋田繁太郎との入閣交渉においても「海軍軍備の充実」とともに「外交の推進」を約していた[241][注釈 27]。東條の交渉推進への方向転換については、陸軍内部から「東條変節」と評する声さえ聞かれたが、東條にとっては天皇の御言葉が絶対であった[243][注釈 28]。, なお、近衛内閣の崩壊と軍人内閣の出現はアメリカ側に戸惑いを与えたものの、それほど悪い印象を与えたわけではなかった。戦争に打って出る危険性は孕んでいるものの、日米間の対話は継続されるというのが大方の認識であった[245] 。, 18日に成立した東條内閣は「白紙還元」に基づき、国策再検討を行うこととした。しかし、再検討の関係資料の多くを作成した陸海軍の責任者は海相を除けば前内閣と同じ顔ぶれで、かつ再検討に消極的なため、「かような性質の資料に立脚した国策再検討が要するにもとの木阿弥に落ちついたのはむしろ当然」で、結論的には和戦両様案の採択となる[246]。, 29日の連絡会議は対米条件の審理となった。9月6日御前会議決定の最小限度の要求では、短期間内に外交を妥結させる見込みなしという点では全員が一致したため、交渉条件緩和に議論が移った[247]。果然、中国における駐兵、撤兵問題で激論となった。東郷外相が「他国の領土に無期限に駐兵するの条理なきこと」を説き駐兵期間5年を主張したのに対し、参謀本部は「駐兵を期限付とする時は支那事変の成果を喪失せしむる」として強硬に反対し、東條首相も暗にこれを支持するなど反対論が相次いだ[248][247]。東條は永久に近い言い表し方として年数を入れることを提議し、99年案や50年案も出たが、結局は25年とすることで話がまとまった[247]。また、三国条約については従来通りで変更せず、中国における通商無差別待遇の問題については「無差別原則が全世界に適用されるに於いては」という条件を付し、これを認めることに決まった[247]。, 甲案は9月6日の御前会議決定を緩和したもので[249]、具体的には9月25日付日本案から懸案三問題(中国における通商無差別問題、三国同盟の解釈及び履行問題、中国及び仏印からの撤兵問題を指し、日米交渉の三難点と言われた)につき日本の主張を緩和したものになる[250]。, 嶋田海相は入閣当初、戦争回避の必要性を明言していたが、10月23日から30日までの連絡会議における討議の影響を受け意見を覆した[251]。30日、嶋田は沢本頼雄次官や岡軍務局長に対し「数日来の空気より総合して考えうるに、この大勢は容易に挽回すべくも非ず」「自分は今の大きな波を到底曲げられない」として戦争決意を表明した[252]。澤本は「何度考えて見ても大局上戦争を避くるを可」「米国の国情として議会に諮らずして戦争をすることは有り得ない」として再考を促したが、嶋田は色をなして「次官の保証がいくらあっても何の役にも立たぬ。時機を失せぬ様にすることが大切である」と押し通した[253]。この嶋田の姿勢について、「政治的に無経験な嶋田の履歴や性格から、彼が開戦・避戦の大局的な判断を短時日のうちにおこなうのはもともと無理な課題であった」[254]との指摘がある。, こうして「実質的に、開戦への最後の歯止めは取り除かれた」[254]形となり、海軍の戦争決意は「対米開戦のポイント・オブ・ノー・リターン」[255]となった。, 11月1日の連絡会議は午前9時から開催された。冒頭、嶋田海相は鉄その他物資の増配を頑強に主張し、要求が認められるや開戦決意の意思表示をなした[256][注釈 29]。, 続いて議論は、1.戦争を避け臥薪嘗胆する、2.開戦を直ちに決意する、3.戦争決意に下に作戦準備と外交を並行させる、の三案の検討に入った[258]。, 第一案は不可能であるという判断から葬り去られた。臥薪嘗胆は日本の国力の確実な低下を招き、2年後に石油が尽きた段階で米艦隊に来攻されれば、戦わずして屈服するしかない、という最悪のケースが想定されたからであった[259]。加屋蔵相と東郷外相はアメリカから攻めてくる可能性は低く、今戦争をする必要はないと主張するも、2年間無為に過ごすよりも南方作戦を実施して戦略要点と資源を確保した方が有利との議論を崩すことはできなかった[260][261]。戦争の見通しについては、永野軍令部総長は戦機は今しかない、開戦後二年は確算あり、三年目以降は不明との主張を繰り返し、加屋と東郷は三年目以降の見通しを明らかにするよう追求したが、結局「開戦三年目以降は不明」と裁定されるに至った[260][262]。, 第二案は参謀本部が採り、杉山参謀総長と塚田攻参謀次長は「作戦開始は十二月初頭」「直ちに開戦を決意する」「外交交渉は挙げて作戦開始の名目把握及び企図の秘匿におく」と主戦論を展開した[258]。東郷外相と加屋蔵相はこれに反論して最後の外交をやるように主張し、東條は外交を行う期日を含めて第三案も並行して審議するよう提議した[263]。, 政府側の外交上の要求と統帥部の作戦上の要求が対立したが、結局、11月30日まで外交を継続しても統帥上差し支えなしとの結論に達し、, との問答を経て、外交打ち切りの期限は「12月1日午前0時」と決定した[264](第三案の和戦両様案では、9月6日御前会議決定の二の舞いになる恐れがあったため、参謀本部首脳は明確に時間を切るように申し合わせており、その意味では「この時点に時刻を切ったのは塚田の主戦論の部分的勝利」であった)[258]。即ち、11月末までに日米交渉が成立しなければ、12月初頭(実際には12月8日)に開戦と決定した。, 日本は、臥薪嘗胆については最悪のケースを恐れて排除する一方、アメリカが乗ってくる可能性のある外交と三年目以降の見通しのつかない戦争は、希望的観測を持てるが故に採用したのであった[259]。当時、英米と日本では国力が隔絶しているのは常識であり、日本の指導者は長期戦が至難であることを皆認識していた。それにもかかわらず、交渉失敗の場合は戦争を避けて「臥薪嘗胆」するのではなく、「開戦」するという極めてリスクの高い選択が行われたことについては、行動経済学のプロスペクト理論と社会心理学の集団意思決定におけるリスキーシフトを指摘する研究もある[265][注釈 30]。, 会議は外交交渉の討議に移り、東郷外相は29日に同意を取り付けていた甲案に加え、突如乙案を示して、寝耳に水の軍部に衝撃を与えた[266]。, 乙案の狙いは日米関係を資産凍結前の状態に復帰させること、南部仏印からの撤兵により武力南進の断念及び平和的意図という日本の誠意を見せることであった[270]。東郷は「従来の交渉のやり方がまずいから、自分は先ず条件の場面を狭くして南の方の事だけを片づけ、支那の方は日本自身でやるようにしたい」「甲案は短時日に望みなしと思う」と説明している[271]。, という主張を展開、特に塚田は南部仏印からの撤兵について「絶対に不可なり」と繰り返した[271][272]。このため原案第3項は「資金凍結前の通商状態に復帰し、油の輸入を加える」に改められ、「支那事変解決を妨害しない」(米国の援蔣政策停止を求める項目)が第4項として追加された[271][268][注釈 31]。, その後も、なお南部仏印撤兵反対を主張する杉山、塚田と、そのような条件では外交はできぬと主張する東郷との間で、会議が幾度か決裂に瀕するほどの大論戦となった(海軍では永野軍令部総長が乙案に賛成を表明している)[271]。『杉山メモ』[注釈 32]には討議の経過が次のようにある。, ここで東條首相、武藤軍務局長、杉山、塚田は別室で協議し、乙案を拒否すれば東郷が辞職し倒閣に発展する恐れがあること、また援蔣停止の要求があればアメリカは乙案を呑まないだろうという結論に達し、杉山と塚田はやむなく乙案に同意することになった[271][275][268][266]。なお、東郷によれば、武藤は「若し此際外務大臣の主張を斥けて交渉不成立となる場合、陸軍では其責任がとれますか」とまで言って杉山に談じ込んだくれたという[276]。, ここに11月1日午前9時から翌2日午前1時まで16時間にわたった「歴史的重大連絡会議」(『機密戦争日誌』11月2日付)は終了し、2日正午、対米英蘭戦争決意の下に「武力発動の時期を12月初頭とし作戦準備を行うこと」「甲案、乙案による対米交渉を行うこと」「12月1日午前0時までに交渉が成立すれば武力発動を中止すること」を柱とした「帝国国策遂行要領」が採択された[277]。同午後5時、東條、杉山、永野が列立して連絡会議の結果を昭和天皇に上奏した[278]。天皇の期待に応えられなかったためか、東條は涙を流しながら上奏したという[279][注釈 33]。, 11月5日、御前会議において「帝国国策遂行要領」は正式に決定された。そもそも「日米交渉の成否は、直接的に日本の和戦と結びつく筋合いのものではなかった」が、9月6日及び11月5日の国策決定により、日米交渉の成否と日本の和戦が直接的に結びつく結果となった[281]。これにより「日本は開戦に向けて、決定的な一歩を踏み出した」[282]のであった。, なお、昭和天皇は、9月6日の御前会議では「帝国国策遂行要領」に不満を示し影響力を行使したが、今回は慣例通りに発言はなかった。この心境の変化について、天皇が東條へ絶大な信頼を寄せていたことが指摘されている[283]。また、対英米作戦への成算を資料で示した統帥部の説得工作が功を奏し、天皇の戦争への不安を取り除いた、との指摘もある[284](近衛は首相時代に、天皇が「少しづつ戦争の方へ寄っておられる」と感じていたという[285])。, 11月4日午前2時、東郷外相は来栖三郎を招致し、野村大使を応援するためワシントンに急行するよう要請した[286]。東郷は日米関係の危機的現状と甲案及び乙案を説明し、特に乙案中の南部仏印からの撤兵については、交渉の最後の切り札として、野村には知らせず来栖へ託した[286]。, 東郷の要請を受諾した来栖は、4日の午後7時に東條首相と会見した。東條は、米国は両洋作戦の準備が不充分、米世論がまだ参戦を支持していないこと、ゴムや錫などの重要軍需物資の不足等を理由に「米国も濫りに戦争を望むまい」と述べ、交渉妥結の見込みは成功三分失敗七分位であるから、くれぐれも妥結に努力してほしいと力説した[287]。来栖が交渉が妥結した場合、「首相は必然的に来るべき国内各方面の強烈な反対を排しても、飽くまで吾々の作り上げた妥結を支持遂行するか」と問うと、東條は力強い口調で必ず遂行すると断言したという[287](来栖は翌5日に東京を出発し、11月15日にワシントンに到着した)。, 東郷外相は10月21日に野村大使に対して「新内閣に於いても…日米国交調整に対する熱意は前内閣と異なる所なし」と交渉継続の方針を示していたが、御前会議前日にあたる11月4日に詳細な訓電を発した[288]。東郷は「破綻ニ瀕セル日米国交」を調整するために日米交渉対案(甲案、乙案)を決定したこと、「本交渉は最後の試みにして我対案は名実ともに最終案」であることを野村に伝えた[288]。, 訓電では、甲案は「要之甲案ハ懸案三問題中二問題ニ関シテハ全面的ニ米国ノ主張ヲ受諾セルモノニテ、最後ノ一點タル駐兵及撤兵問題ニ付テモ最大限ノ譲歩ヲ為セル次第ナリ」と説明されたが、撤兵問題については「撤兵ヲ建前トシ駐兵ヲ例外トスル方米側ノ希望ニ副フヘキモ…国内的ニ不可能ナリ」「国内政治上モ我方トシテハ此上ノ譲歩ハ到底不可能ナリ」とした[250]。, また、乙案は「若シ米側ニ於テ甲案ニ著シキ難色ヲ示ストキハ事態切迫シ遷延ヲ許ササル情勢ナルニ鑑ミ何等カノ代案ヲ急速成立セシメ以テ事ノ發スルヲ未然ニ防止スル必要アリトノ見地ヨリ案出セル第二次案」と説明された[289](ただし、野村に送られた乙案は、アメリカによる傍受・解読を避けるため、備考にある南部仏印からの撤兵の部分か意図的に落とされていた[290])。, 11月5日、東郷は甲案交渉の開始を訓電し、乙案の提示については「必ず予め請訓あり度し」とした[291]。さらに「本交渉は諸般の関係上遅くも本月二十五日迄には調印をも完了する必要」との期限を付けた(この11月25日という期限は外務省独自のものと考えられる)[291]。, アメリカ側は、東郷の一連の訓電、日本の提案は「名実ともに最終案」であり、「妥結に至らざるに於ては…決裂に至る外なく」、さらにタイムリミットを付したことなどを「マジック」で解読した結果、これを最後通牒とみなした[292][293][注釈 34]。即ち「マジック」によって、日本が戦争に踏み切るだろうと事前に予測していたのであった。, また、この時の「マジック」情報では、重大な誤訳が生じていた。甲案での「なお、(ハル)四原則については、これを日米間の正式妥結事項に含むことは極力回避する」との訓電が、「マジック」では「四.原則として、これを日米間の~」と誤訳され、日本側の通商無差別、三国条約、撤兵問題での譲歩すべてを正式妥結事項に含むことを避けるという意味となった[296]。ハル国務長官は、東條内閣に対してむしろ交渉への期待を抱いていたが(ハルは天皇の影響力に期待していた)、日本側の誠意を疑わせる「マジック」情報はそれを裏切るものであった[297]。, 11月7日、野村大使はハル国務長官に甲案を提示した。ハルはマジックによって甲案の内容はもちろん、乙案が最後にあることも知っていたので、甲案はほとんど問題としなかった[298]。, その後、ハルは甲案に答える代わりに、これまでの交渉で日本側が提案した内容に関して東條内閣に確認を行い、また、15日には通商無差別の原則に関するオーラルと経済政策に関する日米共同宣言の提案をしたが、これらはアメリカの誠意を示すジェスチャー、あるいは時間稼ぎであった[299]。事実、日本側は再三にわたって甲案に対する回答を求めていたが、アメリカ側は抽象論を繰り返し、研究の上回答するなどと確答を避け続けた[300]。, 15日の会談では、ハルは中国における通商無差別待遇の問題について、甲案の「全世界に適用」という但し書きの撤廃を要求し、さらに三国同盟の「死文化」をも繰り返し要求した[301]。日本側は三国同盟の脱退なしに日米間の妥結は不可能という意味かと問い質したが、ハルは確答を避けた[301]。さらに今回の議論を甲案の回答と看做してよいかという質問からも、ハルは逃げを打った[301]。, 交渉が困難であることを痛感していた野村は、アメリカは日本に譲歩するよりも戦争を選ぶ決意であり、交渉期限はつけずに長期的な構えをする方がいいと具申している(14日付野村電)[302]。しかし、東郷外相は交渉期限は絶対に変更不可と答えた(東郷も期限付交渉には賛成していなかったが)[302]。, 一方、15日に着任した来栖大使は、17日、野村大使とともにルーズベルト大統領と会談した(ハルも同席)[303]。交渉の早期妥結を訴える来栖に対し、ルーズベルトは「友人の間に最後という言葉はない」(There is no last word between friends.